教育より新聞への影響を重視する主張
小中学校で使うデジタル教科書について、文科省の専門家会議は2020年度に導入する案を決めました。導入に際しては、いくつもの課題があるにせよ、正しい方向だと思います。社会経済の競争力の落ちてきた日本にとって、教育が最も重要な将来への投資であり、少なくとも英語教育と並び、デジタル教育が不可欠です。
私を含め、多くの中高年がまともに英語を話せないため、国際社会で通用せず、さらにデジタル能力(リテラシー)に欠けていたため、アナログ社会からの転換に立ち遅れた責任を痛感しています。せめてデジタル教科書の導入が、若い世代に新しい能力を植え付けてくれることを期待しています。
これは時代の流れ、世界の流れであるはずなのに、日本ではこともあろうに、時代先取りしなければならない新聞界の腰が重いのです。デジタル化が進むと、紙の新聞が置いていきぼりを食うことを恐れているようなのです。極論すれば、新聞界の利益を守るためなら、国全体の利益が後回しになっても構わないという姿勢です。
デジタル社会は紙の部数を減らす
デジタル教科書に強く反対しているのは、最大手の読売新聞であたりではないでしょうか。これまで3度ほども、デジタル教科書の導入に消極的とみられる社説を掲載しています。紙の部数が何百万にものぼり、全国各地に展開する販売店網や印刷工場を維持する必要があります。情報のデジタル化で紙媒体が縮小し、虫食い状態になると全国ネットに穴があきます。
4月30日に「デジタル教科書は紙の補助的役割にとどめよ」とする社説を書きました。「学習効果や健康への影響が十分に検証されないまま、教科書のデジタル化に道を開くことには疑問を禁じ得ない」と、態度ははっきりしています。
「デジタル技術を使った教材を、教科書の副教材とするならともかく、教科書自体をデジタル化する必要はあるのか」、「次々にサイトをたどるうちに、本来の目的を見失う。自分の頭で考える力の養成につながらない」、「自宅でデジタル端末の操作に没頭し、本を読む時間が減る」、「きちんと管理しないと、有害情報にアクセスする」などなど。
ビル・ゲイツさんが笑っている
そうした問題、懸念があるとしても、多くをデジタル教科書のせいにするのは無理でしょう。デジタル社会そのものにいろいろな問題があったとしても、それをしのぐ計り知れないメリットがあり、デジタル社会は急速に進化を遂げているのです。マイクロソフトのビル・ゲイツさん、フェース・ブックのザッカーバーグさんは、若いころからデジタル漬けだったでしょう。「自分の頭で考える力が養成されない」などと言われたら、大笑いするでしょう。
朝日新聞は「電子教科書の自治体任せは無責任だ」(4月23日)という社説を書きました。「まず導入したうえで、走りながら(対応策を)考える。大丈夫だろうか」と、指摘します。脳の発達、睡眠への影響、読む力や書く力への影響、端末の無償化の問題など、考えるべき課題は多いとの主張です。
すでに小学生の33%、中学生の58%がデジタル端末を持ち、日々、触れています。朝日が指摘するような課題は教科書との関連ではなく、デジタル化そのものとの関連で考えるべきなのでしょう。一読すると、朝日はデジタル化の弊害に懸念を持ち、読売はそうした懸念があるデジタル教科書そのものに反対だ、との思いがあるようですね。
取材力、情報分析力のビジネス化競争
新聞社はデジタル教科書の影響を誇張してはいけません。すでに新聞記事を無料ないし有料で大量にパソコン、スマホなど向けに提供し、紙の部数を減らす原因を自ら招いています。小中学生の大半が紙新聞を読んでいません。彼らが成人した場合、新聞はとらないでしょう。多くの学校教員も新聞を取らなくなっています。大学教授もです。
社会の新聞離れ、部数の減少はデジタル教科書との関連で論じられるほど、底の浅い問題ではありません。新聞の取材力、情報分析力、問題提起力には、今後も社会的役割があり、そのニーズは間違いなく存続するでしょう。紙媒体は縮小しても消滅することありません。
新聞社や他のメディアが持つ社会的な機能を、デジタルのルートにも乗せ、採算とっていくかがメディア経営の根幹となるのに、日本での動きは部分的です。欧米では大胆な実験、進化、変化が日々、起きています。どのような企業モデルが成り立ちうるのかの試行錯誤で、道をひらいていくしかありません。現状を守るより、どう変えていくかです。デジタル教科書問題の記事の扱いが経営・編集トップの差配のもとにあるとすれば、残念なことです。
編集部より:このブログは「新聞記者OBが書くニュース物語 中村仁のブログ」2016年5月1日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、中村氏のブログをご覧ください。