『書経』の「洪範(こうはん)」に「五福」という言葉があります。之は、寿命の長いこと、財力の豊かなこと、無病息災であること、徳を好むこと、天命を全うすること、という人としての五つの幸福を指して言います。
此の第四番目、徳を好むことを幸福だとするは正に、無欲で己を磨くことだけに人生を費やし短命で死した顔回の生の如きを言うものでしょう。彼は「路地裏に住み、食事も一椀の飯に一杯の水といった簡素なもの」(雍也第六の十一)でありながら、それを自ら楽しんでいたと言うのです。
顔回は31歳と若くしてその生を終えたものの、彼にとっては仁者としての生き方に幸福を得ていたのかもしれません。彼のように自己満足できたなら、好徳が幸せということにもなるわけです。従って徳を好むことが幸福であるとは、極めて主観的なものだと思います。
但し、好徳であるとは結局、徳ある人か否かを見分けることにも繫がりますし、良き人と巡り合うことが出来、幸せになれるのかもしれません。「徳は孤(こ)ならず。必ず隣(となり)あり」(里仁第四の二十五)という孔子の言の通り、徳を好むことには意味ありと言えましょう。
それから第五番目、天命を全うすることが出来たらば、ある意味最高の幸せだと思います。私は人夫々に天役、換言すれば天が与えた此の地上におけるミッション、「天命」を持って生まれていると考えています。
自分に与えられた天命をちゃんと認識し、それを果たしたと思って此の世を去れる人は本当に幸せな人だと思います。しかし、そう出来る人はそうざらにはいないでしょう。
晴れ晴れとした人生を送って命を終えたいと思うならば、自分自身に打ち克って自分の天命を全うすべく必死で努力しなければなりません。それは言葉でいうほど簡単ではありません。こつこつと時間を掛け努力し続ける必要ある難事です。
また第三番目の無病息災であること、とは人間どこかで死ぬよう出来ているものですから、之も極めて難しいことだと考えます。ポックリ寺まであるほど突然死を望む人が多いです。
一般の人は基本、中国の道教で理想とされる「福禄寿」で十分幸せだと思います。之は、幸運と子孫に恵まれること、金銭に恵まれること、長生きすること、という三つの幸福を指して言います。誰しもが福禄寿を望むところですが、此の三福ですら所詮人知人力の及ぶところではありません。
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