核廃絶への道

松本 徹三

こういう題名にはしたものの、私は実は「核廃絶は永久に無理だろう」と思っている。私は悲観論者なので、「人間は『核兵器』や『凶悪ウィルス』を作りだす能力を持っている一方で、他の人間や社会をうまくコントロールする能力はあまり持っていないから、結局は自分達の作ったもので自分達を破滅させる事になるのだろう」と思っている。だから、如何にそれを遅らせるかだけが、我々が抱える大きな課題だと思っている。

先ずは「人間の本質」と「それがもたらす現実」を直視しよう

人間は、殴り合いをすれば、お互いに怪我をするし、負けた側は惨めな思いをする事になるのをよく知っているのに、毎日どこかで殴り合いをしている。腹がたつと抑えられないからだ。「闘争本能」は人間が生れながらにして持っているもので、食欲や性欲に近いものだ。

だから、かつては「戦いに勝つのが最高の英雄的行為」と思われており、若い男達は率先して正義の為に戦地に赴いた。思いとどまったのは「戦っても勝てそうにない」と思った時だけだった。相手がトロいと思った時には、アンフェアだと思うどころか、余計に嵩にかかって攻めかかった。

しかし、兵器の性能が向上した第一次世界大戦では、戦争の悲惨さが如実に実感され、第二次世界大戦では、非戦闘員が巻き添えになるのが戦略的にも戦術的にも避けられない事が分かってきた。

そして、核兵器の威力を目の当たりに見せつけられるに至っては、流石の好戦的な人類も、遂に「何とかして戦争のない世界を作らなければならない」「少なくとも核戦争だけは避けねばならない」と強く考える様になった。これは綺麗事でも何でもなく、多くの人が今は本気でそう考えているという事だ。

にもかかわらず、現在の世界でも、なお、どんな国でも軍備を持ち、軍人達に戦闘訓練を積ませている。現実に世界の幾つかの場所では、今のこの瞬間にも戦闘がなされている。多くの国が如何に強く平和を希求しても、「いざとなれば力で解決しよう」と考える集団がこの世界から完全に根絶されない限りは、どんな国でも「自国民の生命と財産、自由と尊厳を守る」為には、「いざという時の戦争」を覚悟するしかないのが現実だ。

何としても堅持すべき「核不拡散」の枠組み

核武装の問題もこの延長線上にあることは否めない。しかし、現時点では、「核不拡散条約」というものに多くの国が署名しており、ここに定められている事が一応世界のコンセンサスになっている。考えてみれば、「たまたまその時点で核を持っていた米、露、英、仏、中の5カ国以外は核兵器を持てない」と定めたこの条約ほど不公正な条約も珍しいとは思うのだが、国際法が未成熟な現在の時点では、多くの国際条約が「現状の不拡大」を原則とするしかないのも事実だ。

(その後、お互いに交戦中だったインドとパキスタンが、国際社会の複雑な利害相反の間隙をついて「核保有」という既成事実を作ってしまったので、国際社会はこれを追認せざるを得なかった。また、イスラエルは恐らく既に核兵器を持っているだろうと多くの人が考えているが、イスラエル自身が公式には認めていないので、国際社会は何の措置も取れずにいる。)

しかし、にもかかわらず、私自身は「現在の核不拡散の取り決めは堅持すべきであり、従って、日本はどんな事があっても核兵器を保有するべきではない」という考えだ。理由は「核が拡散する事によって、世界中で不測の自体が発生する確率が高まるぐらいなら、現在の理不尽な取り決めを堅持した方がマシだ」と考えるからだ。日本がもし自ら核武装すれば、もはや他国(北朝鮮の様な国を含む)の核武装を非難する事はできなくなるという事も考えねばならない。

しかし、その為にも、或いはその条件として、日本は下記を強く主張すべきだ。

  • 核不拡散体制を強化し、イランや北朝鮮の動きは断固として封じ込める一方、核兵器がテロリストの手に渡る様な事態は何としても防ぐ。
  • 米・露は、既に合意している「相互削減」の実行を促進させ、英・仏、及び中国は、現有のもの以上の保有量の増加を行わず、継続的な情報の公開を約束する。
  • 米国は、日本が安全保障上の最悪事態に直面した時には、ドイツ、イタリア、オランダ、ベルギー及びトルコに認めているのと同等な「核兵器シェアリング」を、日本にも認める事を約束する。(但し、「戦車軍団による侵攻」を恐れなければならない欧州諸国とは異なり、「海洋での衝突」と「ミサイル攻撃」を恐れなければならない日本に対しては、「シェアする兵器」の内容は大幅に変えなければならないのは当然だ。)

オバマ大統領の広島訪問の意義

さて、ここで、最近のオバマ大統領の広島訪問について語りたい。

この歴史的な出来事を高く評価した人達が、特に日本では圧倒的に多かった一方で、これを「核廃絶を訴えたプラハ演説でノーベル平和賞まで受賞したのに、現実には何の進展ももたらす事のできなかったオバマ大統領の『退任間際の無意味なパーフォーマンス』に過ぎない」として、酷評した人達も世界中には結構いた。

英国のインディペンデント紙などは、広島でも常に大統領の脇にぴったりと付き添っていた顧問武官が携帯していた「核のフットボール」(黒革で覆われたブリーフケースで、大統領がどこにいても、司令部に指示を出して核兵器の発射ボタンを押す事を可能にしている)を話題にして、「彼(オバマ大統領)が核廃絶の世界に本気であったのなら、彼はその武官を呼び出して「核フットボール」とその武官の腕を結びつけた紐を切り離し、それを平和記念公園に燃える永遠の炎のなかに投げ入れただろう」と書いている。大統領の広島訪問は「矛盾」と「欺瞞」に満ちたものだったと言いたかったかのようだ。

しかし、私はこの様な感傷的なコメントを殆ど評価しない。

米国を始めとする「核を保有する7カ国」が存在するのは、すぐには変えられない現実であり、これらの国が「どういう時にそれを利用するか」を、それぞれに定めているのも事実だ。どんな国でも、相手国との何らかの話し合いの結果を受けるのでなければ、この体制を一方的に放棄する事など出来るわけはない。(従って、担当武官と「核のフットボール」をつなぐ紐を、米国の大統領は広島の平和記念公園の燃える炎の中に投げ入れる事はできないのだ。)

私がこの記者に問いたいのは、「それなら、オバマ大統領は、広島を訪問などしなかった方が良かったのか?」という事だ。私はそうは思わない。勿論、そんな事ぐらいで「核廃絶への道が大きく開ける」と考える程、私もお人好しではない。しかし、一歩前進にはなるだろうし、少なくとも一歩後退にはならないだろう。どんなに小さくても、その「一歩前進」は率直に評価すべきではないのか?

日本が謝罪を求めなかったのは正しかった

また、その一方で、日本の国内にも国外にも「謝罪がなかった事」を批判する人達は多い。しかし、私は、日本が謝罪を求めなかったのは正しい選択だったと考えているし、米国の大統領が自主的に謝罪しなかった事を責める気持も毛頭ない。

これを求めれば、米国の世論は待っていましたとばかり「真珠湾攻撃」に矛先を向けるだろうし、残念ながら、世界最初の民間人の無差別虐殺だった「錦州爆撃」や「重慶爆撃」についても、あらためて言及がなされるだろう。

お互いに過去の出来事に言及して、非難の応酬をしてみても、何も得るところはない。どんな政府でも、国内世論を敵にしたくはないので、あらゆる言い訳を駆使して謝罪を回避するように努めるだろうし、議論は刺々しいものになり、関係は悪化するばかりだろう。(この点で韓国人という「反面教師」を持つ日本人は、それがもたらす害悪をよく認識している筈だ。)

それよりも、これからの世界の方向を決める各国のキーパーソン達が、心の中で過去の「問題のあった決定」を真摯に反芻し、将来に対しての思いを固める事の方が数百倍も重要だ。我々が求めるべきは、相手に頭を下げさせて胸のつかえを下ろす事ではない筈だ。何としても、核兵器による人類滅亡の危機を、少しでも遅らせる事こそが必要なのだ。

「そんな悠長な事を言わないでも、こうすればその目的は達成できる」という具体的なアイデアを持っている人がいるなら、すぐにそれを提示してほしい。