全体主義の「怖さ」がわからないリベラル系日本人

唐・天竺に始まって中国、欧米と外に「真の世界」があり、「日本は常に劣っている、海外に学ばなければならない」とする伝統的な弱い価値観がいかに、日本を蝕んできたか。

西尾幹二氏が月刊「Hanada」7月号に掲載した論文「オバマ広島訪問と『人類』の欺瞞」を読むと、その感を深くする。大事な問題だと思うので、しつこいようだが、もう1回付き合ってもらいたい。

2002年、当時の小泉首相の北朝鮮訪問により蓮池さんなどの拉致被害者が日本に帰国した。覚えている人もいると多いと思うが、それを再び北朝鮮に戻すかどうかについて、朝日、毎日などリベラル系メディアが読者の投稿欄を駆使して、なんと「(拉致被害者が)日本と北朝鮮の間を自由に行き来できるようにすべきだ」という論陣を張った。

核武装を展開する一党独裁、専制主義今の北朝鮮を思えば、なんともおかしな論考、キャンペーンだと思うが、当時の彼らはそうは考えなかったし、多くの国民もそれを許していた(イヤ、今でも心から反省しているとは思えないフシがある)。

「両国を自由に往来できるようにして、子供と将来について相談できる環境をつくるのが大切ではないでしょうか。子供たちに逆拉致のような苦しみとならぬよう最大限の配慮が約束されて、初めて心から帰国が喜べると思うのですが」。

当時の朝日新聞に載った典型的な世間知らずのエエカッコシー読者の投稿である。逆拉致!? 今ではとても信じられないが、そういう読者が存在し、それを価値ある考え方として各メディアが採用したのである。

北朝鮮への大いなる幻想――。その数年前まで「地上の楽園」という北朝鮮の宣伝を信じ、現地に招かれた記者が向こうの言う事を少しも疑わずに偏った情報を垂れ流していたのだから、当然かも知れない。当時は北朝鮮と仲良くし、貧しい彼らに戦前の植民地化を贖罪する意味もあって巨額の経済援助をすべきだ、と考えていた(彼らには今も根強い発想である)。

「拉致をしたのは悪いが、戦前の日本の朝鮮半島での植民地化はその何十倍も悪かった」という論法を保持していた。今もそれを改めない論者も少なくない。

全体主義国家の北朝鮮との間で、「拉致された日本人の子供たちが自由に往来できる!」などということがありうる、と当時の朝日や毎日は考えていたのである。全体主義国家の恐ろしさを理解していないのだ(しつこいようだが、今もその考え方から完全には抜け気っていない)。

そもそも多数の日本人を拉致したのは北朝鮮である。その日本人を全員、有無を言わずに返還するのが当然なのである。

ところが、当時の朝日や毎日、それに連なる評論家はそう考えない。それどころか、当時の北朝鮮との外交交渉を担当していた田中均氏など外務省の高官は日本に一時帰国していたた蓮池さんら5人の拉致被害者について北朝鮮に戻すべきだ、と主張していた。「いったん戻すのは北朝鮮との約束だから」というのである。

そういう信頼の置けない日本の外交当局をにらんで、拉致被害者も帰国後、すぐに北朝鮮に戻る素振りを見せていた。安倍官房副長官はじめ当時の政治家たちの強い意志で、日本政府が永住帰国を決めたことがはっきりした後、ようやく5人は「北には戻りたくない」「日本で家族と会いたい」と言い出す。

それほど外務省高官やメディアなど日本政府の姿勢は危なっかしく、日本人の拉致被害者よりも北との交渉を優先していたのだ。北朝鮮との交渉で成果を挙げたいとする外務省の省益が国民の拉致をなくすべきだという国益より優先していた、とさえ言いうる。

外国は「日本より自由で民主的だ、それに比べれば、日本は劣っていることが多い」。それが今に続くマスコミの論調だった。「韓国や北朝鮮、中国が日本の過去の歴史について興っているのなら、その怒りが解けないうちはずっと向こうの要求を受け入れるべきだ」という空気が強かった。

その空気がようやくここ数年、変わってきた。北朝鮮の拉致や核実験、ミサイル打ち上げがはっきりし、尖閣諸島や南シナ海で中国の軍事攻勢が強まり、かつ韓国がうんざりするほどいつまでも慰安婦問題を批判する反日国家であることが明確となったからである。

大手メディアの北朝鮮びいきが納まったのも、これを背景にしている。

唖然とするではないか。それほど日本の外交は弱く、屈辱的だった。社会主義・共産主義国家を信じ続けていた。その責任を覆い隠す意味もあって、今も日本人を卑下する歴史観や価値観を引きずっている。

「日本は戦前悪い国だった、その清算をしなければいけない」という汚染された歴史観が日本人の骨髄に沁みこみ、そこから逃れられない。

北朝鮮や中国、そして韓国も、日本よりもはるかに自由と民主主義が制限されている。戦後、日本に言論の自由を許さなかったGHQを保有した米国よりも日本の方が自由である。

それが今もわからない。例えば、ベルリンの壁が崩壊し、社会主義・共産主義の旗色が悪化した1990年1月に、典型的な左翼・リベラル評論家である加藤周一氏は朝日にこう書いた。

「政治的に政権交代の制度化において……欧米が先行し、ソ連・東欧・中国・日本がはるかに後れていた。……1990年1月現在の日中両国には、一党支配が続いている」

日本は自民党の一党支配が続いていたからである。これに即、反論できる人は今でもそれほど多くないかも知れない。
業を煮やした西尾氏は「新潮4」1990年3月号にこう書いて、加藤氏を批判した。

「日本と中国の『一党支配』が原理を異にする、別次元の性格のものであり、「ソ連・東欧・中国・日本」と並べるわけにはいかないことは、加藤氏よ、13歳の中学生でも弁えている現実である」

だが、中学生にそうした教育をして来なかった日本の学校教育に問題があるのだ。自由や民主主義、経済の豊かさについて日本人が居丈高になる必要はない。今も不十分な点は少なくない。だが、多くの先進国の中でも、トップクラスの位置にいることはデータも示して、自信を持って教えるべきだろう。

でないと、時代錯誤のメディアがいつまでも残ってしまう。