なじみ客

先日なじみのビアバーのカウンターに腰を下ろし、スタッフを見たところ、知った顔が誰もいません。スタッフも私も知らない同士なので行きつけの店なのに妙によそよそしくなり、腰が据わりません。ビール1杯飲んだところでそばにいたマネージャー氏(と言っても20代半ばぐらいの若い方)に「知った顔が全くいなくなったようだが?」と声をかけるとみんな辞めて自分もまだ入って僅かだ、と。お気に入りの店に期待するものとは「いつものやつ」といえばいつものビールが出てくるそんな気安さではないでしょうか?

大分前に東京で女の子のいる飲み屋に友人に連れて行かれたのですが、彼は知っている店だから楽しかったようなのですが、私は誰も知らないので20分ごとにくるくる変わる隣の女性に自己紹介を延々と繰り返し、げっそり疲れてしまったことがあります。

大塚家具の決算が芳しくないようです。今年12月の決算は16億円の赤字と6年ぶりの最終赤字を見込んでいるのは娘の経営方針がうまくワークしていない可能性を示しています。父の時代は会員制を謳い、店員が客にくっつき、細かい対応をしていたのを娘が今の時代に合わせ、入りやすい店づくりを求め、会員制もなくし、商品価格構成もやや下げる方針を打ち出していました。娘のメディアへの露出も最近は細り、いよいよその経営が正しかったかどうかを占うところに来ていましたが、厳しい状況を呈しているようです。

これも「なじみ」の発想ではないかと思います。モノを買う時、純粋に商品との一対一勝負ならばネットで買えばよいでしょう。わざわざ店に出向く理由は何でしょうか?それは「親身」なのだと思います。

デパートの店員が洋服売り場で「お客様、こちらがお似合いかと。」「それもお似合いですね。」「これなんかもいかがでしょう?」と言いつづけ、客が「どれが一番似合うの?」と聞けば「どれもお似合いです」という昔からある笑い話は「親身」ではありません。顧客の仕事、性格、好みを知り尽くしたうえで「この色はお客様に映えます」と言われればそうかな、じゃあお願いします、という感じになるのではないでしょうか?

消費が増えないというテーマをこのところ続けて書いているのですが、売り手側の商売のやり方が消費をそそらなくしてきたことも一つあるのではないでしょうか?スーパーで買い物しても「会員カードお持ちでしょうか?」と聞かれ、「ない」といえば「失礼しました」で終わるその関係は薄弱でカードのポイントを通してしか客と店を繋ぐものがない気がします。

昔、肉は肉屋で買うものでした。その肉屋におつかいに行けば「僕、偉いねぇ、少しおまけしておくよ」と言われたものです。「奥さん、今日は特別きれいだねぇ、少しいいお肉を内緒でサービスしておくね」というセリフも当時は常套句、今なら許されない「身勝手差別化」が逆に売り上げを伸ばす秘訣だったのではないでしょうか?

こう考えると実は私たちの周りで「なじみ」になるほどの関係をつくれるのは近所の赤ちょうちんとか商店街の店などごく少なくなってきたのではないでしょうか?昔、私が日本で車を買っていた際、やり手のそのセールスマン氏は「もうそろそろ、あの車、買い替え時期でしょう」とか「お父様の車、これなんか似合いますよ」といった具合で何年もの付き合いの中で何台か車を買わせてもらいました。私は縁がないですが、少し富裕層の方はデパートの外商が家に来てくれたりします。これも「御用聞き」の三河屋と同じ発想です。

店員の役目とは何でしょうか?それは価格や価値の違いを説明し、なぜこちらの商品の方が優れているか、それをお客様に知っていただき、プラスアルファの支出を引き出すことにあります。ところが先日も指摘したようにネットでモノを買うと一番安いものと二番目に安いものの差別化が出来ません。多くは一番安い方に流れてしまうのです。言い換えればネット社会が生んだ消費力減退も大いにあるかと思います。

なじみの関係とは客と売り手の信頼関係であります。それが今の社会ではほぼ完全に欠落してしまいました。コンビニでモノ買うのに客は一言も発せず、店員は「いらっしゃいませ」、「○○円です」、「有難うございました」の3言しか発しない関係が正しいのでしょうか?

多分、若者からは「会話、うざい!」と言われるのでしょう。でもそれはやっぱり間違いである、と声を大にして私は言い続けます。

消費の話を3連投させて頂きました。お読みいただき、ありがとうございました。

では今日はこのぐらいで。

岡本裕明 ブログ 外から見る日本、見られる日本人 6月9日付より