クリントン候補は「トランプ打倒」の戦略を再考すべき

民主、共和両党とも大統領選の候補者が決まり、いよいよ対決モードに入ったが、多くの人が眉を顰めるトランプ氏と、全く人気の盛り上がらないクリントン氏の対決に、米国人も少し戸惑っているだろう。しかし、米国の新大統領の見識が日本を含む世界の政治に与える影響は極めて大きく、我々も目を離すわけにはいかない。少なくとも、舛添知事が辞任するかどうかといった極端にみみっちい問題に比べれば、これが数百倍も重要な問題である事に間違いはない。

多くの人が指摘する様に、当初の予測とは大きく異なり、現時点では「トランプ勝利」の可能性がかなり高くなってきた。また、多くの識者が言っている様に、トランプの過激発言は「先ずは米国人の本音を代弁して、その心を掴む」というよく考え抜いた「選挙戦術」であるに過ぎず、ビジネスマンの彼が実際に政権をとれば、無茶をやって米国民に損害をもたらす様なことはしないだろうという「一種の安心感」のようなものが、一部には芽生えつつあるのも事実だろう。

しかし、彼に対する懸念は、米国内よりも国際社会においてより大きい。彼が「自由主義社会の普遍的な価値を守護する」等といった綺麗事の言葉をかなぐり捨てて、露骨に自国民の短期的な利益のみを追求すれば、各国もこれに対応する為に選択肢の幅を広げざるを得ず、これは、結果として、米国と対立してきたロシアや中国の様な独裁主義的な大国に漁夫の利を与え、これによって、世界における力のバランスは大きく崩れかねない。

クリントン陣営がとるべき戦略

その様に考えると、現在のクリントン陣営のトランプ候補への対抗策は何とも心許なく思えてしまう。

先ず「お互いに詐欺師とかインチキとか呼び合って、悪口雑言の応酬をする」事は、クリントン陣営としては最も避けるべき事態なのに、現状はその方向に進んでしまっている。「足の引っ張り合い」が今回の対決の主題にならざるを得ないのは、或る程度は止むを得ないにしても、そのやり方はもっと洗練されたものにしなければならない。

トランプ氏の言っている事に「誤った事実認識に基づくもの」が多いのは、既に多くの人が知っている事であり、あらためて彼を「詐欺師」と呼んでみても、得るところは少ない。悪口雑言についてはずば抜けた能力を持つトランプ氏と、彼の土俵でやり合えば、彼女までが「彼と同じ様な人間」と見られてしまうリスクがあるので、マイナスだけが残る。

それでは、どうすればよいか? 私は、クリントン氏は決してトランプ氏の挑発に乗らず、あくまでプロの政治家としての冷静な議論に徹し、「彼の子供っぽい主張に基づく政策が、米国民の利益を大きく害する結果を招きかねない」事を、諄々と訴えるべきだ。

平たく言えば、「米国民は耳に快い彼の言葉に惑わされず、今こそ『米国民の長期的な利益』を守る方策を、深く考えるべきだ。そうしなければ、結局は自らが大きな損害を被る事になる(自分はそれが心配だ)」という事を、幾つものケーススタディーの結果を示す事によって、繰り返し説くべきだ。

彼女のスタッフは、トランプ氏のこれまで発言を細大漏らさず拾い、丹念に分析して、「それが実行された場合に起こる悲劇」をシミュレートしてみせる演説原稿の作成に注力すべきだ。

そして、その過程の中で、彼の「事実認識の誤りと判断の甘さ」も、繰り返し且つ容赦なく指摘し、彼の信用の失墜を計るべきだ。減税問題などについては、彼の過去の発言は度々大きくブレているので、この点を執拗に衝く事も必須だ。今となっては、「フリー・ランチ(只の昼飯)はない」という現実に大衆が気付くように、議論を誘導していく事こそが必要だと言える。

要言すれば、彼に対する攻撃対象の重点を、彼の「道義的な退廃」よりも、彼の「政治的判断の甘さ」と「プロフェッショナリズムの欠如」に向けるべきだというのが、私の言いたい事だ。今や、米国民の多くが「綺麗事の道義心など糞食らえ」と思っているのだから、仕方がない。

経済問題

経済問題については、「トランプ氏の認識は数十年前の古色蒼然たるもので、仮に彼が政権をとって、彼の主張する経済政策を推し進めようとすれば、たちまち壁にぶつかるだろうし、それによって米国民が失うものは、得るものよりずっと大きいだろう」と訴えるべきだ。「不動産ビジネスなら、思惑が外れて失敗すればその部分だけを損切りすれば良いが、国民経済はそんなに単純にはいかない」と警告すれば良い。

例えば、「日本の自動車メーカーが米国の労働者の職を奪っているという様な認識は大昔のもので、トランプ氏はここ数十年の日米関係の進化を何も学んでいないかの様だ」という様な指摘も、当然なされて然るべきだ。日本の自動車メーカーが米国で行った投資や、現時点で雇用している米国人労働者などの数字も、具体的にあげればよい。

何よりも重要なのは、「米国民の生活を支えている基盤は、今や世界市場であり、先進的な米国企業がその才覚によって世界中に築いてきた強大なプレゼンスである」という事に、もう一度国民の注意を喚起し、「これが失われれば、単に米国の威信が失われるだけでなく、経済的にも多くのものが失われる」事を、強く訴える事だ。

そして、これを守るために必要なのは、自分勝手で乱暴な「一方的な行動」ではなく、「一切の不公正なものを断固として排除する力強さ」を持つ一方で「多くの価値観を受け入れる寛容さ」も忘れない「忍耐強い外交努力」であると主張すべきだ。

一握りの金融資本家が雇ったロビースト達の術中にはまり、これまで無為無策のうちに流れに身を任せてきた米国の政治家に対し、ついに中低所得層の国民の怒りが爆発しようとしているのが米国の現状だ。それ故に、社会主義者と自称するサンダース氏が一挙に脚光を浴びるに至り、トランプ氏の分かり易い過激発言にも人気が集まっているのだ。そして、この感情が、「グローバル経済」自体を悪役に仕立て上げようとしている。

しかし、グローバル経済はもはや後戻りできない段階にきており、米国はその中心にある。偏狭な保護主義は、結局は世界経済の全面的な収縮しかもたらさないという事も、世界中の多くの人が理解している。

だからこそ、クリントン氏は、悪者は「グローバル経済」そのものではなく、これを利用して国への納税義務を回避し、わずかな利益の為に安易に自国民の雇用を犠牲にするような「悪徳経営者」であると断じ、彼等の「悪行」を規制(牽制)する方策(例えば「出国税」)を、力強く打ち出すべきなのだ。

安全保障問題

これについても同様で、トランプ氏の言説がどれ程事実から乖離しているかを指摘する一方で、もしトランプ氏が大統領となって、今彼が言っている事を実行に移したら、世界中でどのような事が起こり、それによって米国民はどのような状況に直面せざるを得なくなるかを、入念にシミュレートしてみせる事が肝要だ。

多くの日本人が気にしている「日本からの基地撤収」の可能性については、「トランプが在日米軍基地を撤退できない理由」と題するNick Sakaiさんの5月10日付のアゴラの記事をご参照頂きたい。ここでも指摘されている様に、日本における米軍基地の存在は、日本を守る以上に米国を守る為に必要なのだという事を、クリントン氏は米国民に周知させるべきだ。これによって、彼女は、トランプ氏の「事実認識の欠如」と「判断の甘さ」を、白日の下に晒す事ができる。

万が一にも、今の時点で米軍がアジアから撤収すれば、台湾はほぼ自動的に中国に吸収され、東南アジア諸国も、時を経ずして、ほぼ全面的に中国の影響下に入るだろう。韓国では保守派の存立基盤は瓦解し、左派政権が樹立されて、パクス・チャイナ(中国の傘の下での平和)路線の下で、ほぼ北朝鮮の考えを敷き写した盧武絃時代の「高麗連邦」構想が、再び陽の目を見る事になるだろう。

今や、世界の産業経済体制の中で、アジアの影響力は圧倒的に大きくなりつつあるので、いくらトランプ氏が息巻いても、中国の影響力をここまで拡大させてしまっては、もはや打つ手は無くなる。米国の産業界は今でも多少は中国の鼻息を伺っているが、この様な状態になれば、もはや対等の関係を維持する事は困難で、何事によらず中国の意向に逆らう事は不可能になるだろう。

日本だけがやや微妙な立ち位置となろうが、これまで漫然とパクス・アメリカーナ体制に安住していた保守勢力が大きな打撃を受ける一方で、左派勢力とほぼ重なる「消極的(空想的)平和主義」勢力は大いに勇気付けられ、パクス・チャイナ体制に組み入れられる事の現実的なメリットを、公然と主張し始めるに至るだろう。

但し、日本には、この一方で根強い「国粋的な心情」がなお存在するので、彼等が危機感を募らせて先鋭化し、クーデターによる民主主義の一時的な停止を画策する様な事態が起こらないとも言い切れない。

 

いささかマンガチックな話になって恐縮だが、これによって誕生する政権は、反中・反米の旗幟を鮮明にせざるを得ないので、「米国及び西欧諸国と基本的に対立する一方で、中国の潜在的な支配力増大も密かに警戒しているロシア」との同盟を、真剣に検討する事になるかもしれない。「海洋への出口」「技術と工業生産力」を求めるロシアと「資源」「工業製品の市場」を求める日本との間にはシナジーが大きいので、これにはかなり現実性があるだろう。

クリントン氏は、この様な「米国にとっての悪夢のシナリオ」も、米国民に見せつけていく必要がある。「やり過ぎれば全てを失う」事を、米国人に気付かせていかなければならない。