ジャーナリズムの劣化の象徴
舛添都知事の辞職は騒ぎのバカバカしさとともに、日本の政治、社会、ジャーナリズムの質の低下を見事に物語りました。バカバカしすぎると思いながらメディアの報道に連日、ついつい引きずり込まれたのは、今の日本を理解する象徴的な事件だったからでしょう。
一言でいえば、まず政治資金規正法が抜け穴だらけのザル法であることが事件の発端です。そのように政界が仕組んできたのです。さらに、伝統的メディアほど舛添氏の周辺を監視する役割を果たしてこなかった「見ざる」です。舛添氏を推薦した自公政権の責任は最も大きいのに、参院選への影響が必至の状況になるまで「言わざる」を決め込んできました。「聞かざる」は、舛添氏自身のことで、耳を傾ける側近、補佐役がいたと思えず、情報作戦に完全に負けたことです。
フランス在住の知人(日本人)がメールで様子を知らせてきてくれました。「これが五輪の開催国になる首都の知事の行動様式なのかと、あきれている。というよりか、日本人はそんなレベルなのかと、みている」と。もっとも欧州もサッカーや五輪をめぐる巨額の資金疑惑に揺れていますから、日本を批判する資格があるのかどうかは、疑問です。
意図的にザル法してあることの結末
今回の事件の本質を一点に絞れば、舛添氏の資金使途は「不適切だが、違法ではない」にあります。政界で政治資金疑惑が浮上するたびに、「政治資金規正法はザル法」と批判され続けてきました。「政治資金は政治活動に使えばよく、資金使途を制限しない」という奇妙な法律です。肝心の「政治活動のため」の定義をしていません。
「ザル法」というより、政治資金問題で政治家が起訴、逮捕されないように、始めから仕組んであるのです。舛添氏もそれを知っていたからこそ、美術品収集、回転すしでの会食、クイズ本の購入、家族旅行の費用などに当て、「政治活動のためだった」との言い逃れで通してきたのでしょう。
なぜもっと、政治資金絡みの法規制を強化すべきだとの声が、与野党から上がらないの不思議です。メディアも「ザル法」との批判はしても、法改正を迫るような論陣を張っていません。甘利氏(斡旋利得罪)も小渕氏(政治資金規正法)も、舛添事件が浮上し、「自分たちだけが悪者でない」とでも、思っているかもしれません。
責任を問われなくなると頑張るテレビ
「見ざる、言わざる、聞かざる」に触れますと、新聞、テレビなどの伝統的メディアは、またも週刊誌、ネット情報に負けましたね。火付け役は週刊誌です。テレビワイドショーで舛添氏を執拗に攻め立てました。舛添疑惑が固まり、あらゆるメディアが報道に乱入してから激しさを増しました。どんな報道をしても、もう責任を問われない段階になると、テレビは勇気づきます。
騒ぎが大きくなり、「視聴率をとれる」となると、テレビ・メディアは俄然、頑張るのです。いつクビをとるのかが中心テーマなりました。舛添問題の本質はどこあるかを考えることにこそ、役割があるはずのジャーナリズムとは言えません。ジャーナリズムはセンセーショナリズムに占領されてしまったかのようです。
知事の行政上の実績は関心の外
新聞もそうでしょう。記者が都庁に常駐してるのに、知事や都政を監視すべ役割を果たしているとは思えません。せめて舛添氏は在任中どのような都政を行い、実績をあげたのかの報道がほとんどありませんできた。やっと今朝の紙面になって、都市間外交、多摩地域重視、多摩ニュータウンの再生などに取り組んできたことが付けたりのように紹介されています。
舛添氏問題は、軽く見られていた週刊誌取材の役割、政治資金の安易な使われ方、ジャーナリズムのレベルの劣化と騒ぎ方、中央政界の打算的な行動様式など、多くの実態を勉強させてくれました。
編集部より:このブログは「新聞記者OBが書くニュース物語 中村仁のブログ」2016年6月16日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、中村氏のブログをご覧ください。