都知事選連載⑤ 「後出しジャンケン」石原流必勝の極意

新田 哲史

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舛添要一がついに都知事の座を去ることになった。後任を選ぶ都知事選は、714日告示、31日投開票に決定。参院選も含め、大型選挙をダブルで敢行することになる首都決戦は時間がなく、各党は、早くも全国区の知名度のある候補者探しを急いでいるが、メディア選挙ではインパクトが重視されるため、近年の都知事選や参院選東京選挙区は告示ぎりぎりに大物候補が名乗りを挙げる流れが続いている。その手法を最も効果的に使い、有力候補者が史上最も乱立した1999年の激戦を制したのが石原慎太郎だ。(敬称略)

国連事務次長、“朝生”学者、“金八先生”…オールスター選挙

1999年の選挙前の情勢を振り返ってみよう。第3回でも取り上げた95年選挙を制した青島幸男は、公約に掲げた都市博中止を断行したものの、その後は存在感をほとんど出すことができず、官僚制度の中に埋没。バブル崩壊後の景気悪化で深刻になった財政危機に歯止めが掛からず、1998年度の赤字は1086億円と、かつてない状況に陥り、財政再建団体への転落がささやかれるようになった。求心力を失った青島は、再選の芽があるとは思えず、99年2月1日、来る都知事選への不出馬を表明した。

「ポスト青島」の座を巡り、政界やメディアは色めき立った。ただ、前回の青島当選で、都知事選が、移り気な首都の無党派層を取り込み、メディアで効果的にPRする選挙の構図が定着した影響が出る。各党が、知名度や話題性を最優先事項に候補者探しをすることが本格化したのが、まさにこの時だった。

小渕政権下、自民党・公明党は、元国連事務次長で、カンボジア紛争やユーゴ内戦の調停を経験した明石康=写真、官邸サイトより=を擁立。これに反発した東京選出の衆議院議員で、元外相の柿澤弘治も出馬に踏み切り、自民党を除名。一方、野党では、民主党から当時所属していた鳩山邦夫が名乗りを上げ、共産党は、「金八先生」のモデルの一人とされる教育評論家の三上満を擁立した。

そして、民間から名乗りを上げたのが、現知事で、当時は国際政治学者の舛添要一。この頃、『朝まで生テレビ』のレギュラーとして、視聴者には顔なじみ。番組を意識したゲームソフト『朝までファミコン』をプロデュースするなど、知名度では政治家たちに匹敵し、北海道知事選への出馬も取りざたされていたが、初の選挙戦となる舞台は東京を選んだ。

かつてない豪華メンバーによる首都決戦は、まるで“オールスター”選挙の様相だった。当時、大学4年だった筆者は、朝昼のワイドショーで彼らがスタジオで前哨戦ともいうべき論戦を演じていた記憶があるが、慶應義塾大学メディア・コミュニケーション研究所紀要『1999年東京都知事選 報道の分析』によると、青島不出馬表明直後の2月7日(日)朝のフジテレビ「報道2001」で、柿沢、舛添らが出演したのを機にテレビ討論は同月だけで10回オンエア。第1回でも触れた「擬似米大統領選」とでもいうべき「テレビ選挙」を体現する格好となった。

だが、2月のスタジオには、ただ一人、「超大物」の姿はなかった。その頃、夕刊紙などで出馬が取りざたされた、その男が参戦を表明して選挙情勢は大きく様変わりする。

巧妙だった「後出しジャンケン」

「石原裕次郎の兄です」−−。記者会見の冒頭、こうおどけて見せた石原(写真はツイッターより)。出馬表明をしたのは、告示まで2週間を切った3月10日。鳩山、舛添など有力な候補者たちが名乗りを上げた後で、悠然と参戦してきた。タカ派の論客として左派・リベラル派からのいつもの批判に加え、「後出しジャンケン」という批判も起きたが、オールスターのラインナップで最後のピースが埋まったことで、都知事選を巡る報道はますます加熱した。

若い読者のために補足しておくと、この頃の石原は作家専業に戻っている。芥川賞を受賞した一橋大学在学中から、昭和を代表する国民的俳優の弟とともに大衆の注目を常に浴び、1968年に参院選全国区で空前の300万票を得て政界転身。総理の座を期待する声もあったが、89年の自民党総裁選では279票を集めた海部俊樹を前に48票の最下位で惨敗。1995年、衆議院議員在職25年を祝う本会議の席で「国家としての明確な意思表示さえできない、さながら去勢された宦官のようである」と言い放って辞職していた。

突然の出馬表明に見えたが、これは戦略的な意図だったようだ。東京新聞で約40年都政取材をした塚田博康の『東京都の肖像』(都政新報社、2002)によれば、石原は前年から立候補の検討に入り、ほかの候補者の動向、各種世論調査の数字など情勢を総合的に判断しての出馬だった。石原が正式に出馬表明する前の3月上旬に共同通信が実施した電話調査で、「もし石原氏が出たら?」という仮定の質問に対し、自民、自由党の支持層と無党派層でトップ。民主党支持層でも2位だったという。塚田は同書で「出るか、出ないかをめぐって話題が盛り上がっているまっただなか、劇的に登場したのは巧妙な選挙戦術だと言わねばならない」と指摘している。

西部警察再放送も!? “石原軍団”のメディアパワー総結集

確認の意味で改めて付言すると、この時点での自民が支援する候補者は明石。自民の若手議員だった長男の伸晃は「肉親だから応援するのは当然」と、党本部の方針に逆らって処分覚悟で公然と支援(のちに役職停止)。石原自身が信者である法華経の霊友会などの組織も支えたが、それでも主要政党の組織力に匹敵するとまでは言えず、やはり、その知名度とメディアを存分に活用した無党派層の取り込みは勝利の条件だったと言える。

選挙戦に入ってからのことは記憶している読者も多かろうが、街頭活動では、渡哲也、舘ひろし、神田正輝ら「石原軍団」が前面に立って道行く人たちの目を引いた。また、これは筆者の仮説だが、「石原軍団」に注目を集める上で、選挙の数か月前からテレビ朝日で平日昼前に「西部警察」の再放送が唐突に始まった効果も、大きかったと考える。戦車が銀座を豪快に走ったり、都内で派手な爆発シーンやカースタントをしたりと、すでに90年代後半のテレビドラマで影を潜めていたアクションシーンは、その時間帯に在宅するシニア層が石原ブランド全盛期の時代を思い起こさせ、同時に昔の放送を知らない若者たちの度肝を抜いて、静かなリバイブルブームを起こした。

「西部警察復活」はその年の7月に迎える裕次郎の13回忌に向け、石原プロとテレ朝が仕掛けた企画だった。前年から石原が出馬準備を密かにしていたことを考えると、ただの偶然だったのかと思うのは少々突飛であろうか。

もちろん政策のオリジナリティーも目を引いた。財政再建の一歩として、その頃の公会計には無かった民間流の複式簿記、バランスシートの導入を公約。一橋大学在学中からスター作家だった印象が強い石原だが、学生時代は公認会計士を志したこともあり、財務・会計への見識があるという意外な一面もあった。

結局、オールスター選挙は、石原が166万票を集め、鳩山(85万)、舛添(83万)らに圧勝(写真は時事)。当確の歓喜に沸く選挙事務所で、石原がテレビ中継のインタビューに対し、「もう既成政党のレゾンテートル(存在価値)は終わった」と気勢をあげたのを筆者は記憶している。

圧勝に隠れた過去の悪夢

順風満帆だった石原の都知事選に思えるが、これはリベンジマッチだったことは付言しておかねばなるまい。筆者が生まれる直前のことなので、さすがに文献や昔の映像でしか知る由はないが、1975年4月の都知事選で、自民党内きってのタカ派の論客だった石原(当時は衆議院議員)は、バラマキ福祉で財政危機を招いていた革新系現職の美濃部亮吉に挑戦した。

選挙前まで美濃部は2期務めていたが、支持基盤の社会、共産両党の対立などから、「美濃部は死んだ」と引退をチラつかせたこともあったが、石原が「都政の荒廃を立て直す」と出馬表明したことで、「憲法改正、核兵器持ち込みを平気でいう石原君が、都知事になることには耐えられない」と翻意。激しく競り合ったが、268万票を集めた美濃部に対し、石原は233万票と一歩及ばず、一橋大学在学中に芥川賞作家となり、若き日からスター街道を歩んできた石原にとっては、初の大きな挫折を味わう結果となった。

石原の回顧録『国家なる幻影』(文芸春秋、1999)では、その選挙を振り返った章のタイトルが「都知事選の悪夢」。そこには石原は作家デビューから3年後、文芸春秋主催の講演旅行で美濃部と同席したエピソードがあり、食事の席で、美濃部が土地の海産物に手をつけず、東京と同じメニューを所望するシーンが活写されている。

「あの僕は海老は弱いの」
と例の甘ったれた声でいって手を振り、
「僕にはステーク(注・原文ママ)を頂けないかしらん」
とのたまう。宿の亭主が当惑して、
「ステークと申しますと」
思わず聞き返すので、
「ステークのことでしょ。つまりテキですよ。ビフテキとか」

石原自身が振り返る“人生初の挫折”

この筆致からも感じると思うが、石原の美濃部嫌いは筋金入りだ。回顧録では、当時の総理、三木武夫とともに「私自身が生理的にどうにも許容出来ぬ人物」と評し、講演旅行についても「この偽善的な人物の滑稽ともいえる素顔を覗く機会」とまで振り返っている。

美濃部に敗れた後、石原の元には「あずかり知らぬ借金の返済請求」やら「選挙中に運動員が使ったというタクシー代の請求」などがどんどん回ってきて、懐が空に近くなり、一部の返済を福田赳夫に頼み込む等、まさに辛酸を舐める事態になった。石原にとって「人生初の挫折」という周囲の声もあった中、本人は選挙後の心境をこう振り返っている。

挫折ということならそれまでも私一人が密かにそう心得、それに耐えもした出来事はいくつもあった。しかし今回の出来事が私自身にとって挫折であったのかどうかは自分でもわからない。というよりそんな気は不思議なほどしてはいなかった。たぶんあのお経の文句のお陰だろう。

これを額面通りに受け取っていいだろうか。その24年後の都知事選の折、石原が街頭演説に現れる際、あえて車を降りてからダッシュで登場する演出をしたのは“美濃部流”を意識していた、と報じられていた。1975年の悪夢は、石原の人生観・政治観に影響を及ぼしたのは確かであり、気位の高い石原だからこそ、心に受けた傷の本当のところを、煙に巻いているように思えるのは筆者だけだろうか。

※第6回に続く。

(参考文献)