インテリの弱さ

所謂「評論家」と言われるの中には、ある程度の知識を有し善悪の判断が出来て良いことを言ったりする見識のある人もおられます。しかしそれを具体的な行動に移すとなると、出来ない人が大多数だと思います。

何ゆえ学者先生等が時々世間の批判の対象となるかと言えば、それは知識(…物事を知っているという状況)は有っても、あるいは見識(…知識を踏まえ善悪の判断ができるようになった状態)と思われるものが有ったとしても、その多くには胆識が無いからでしょう。

即ち、見識に実行力を備えて初めて之が胆識ということになり、自らの言をきちっとやり抜くからこそ世間からの評価を受けることにもなるわけですが、学者先生に「そこまで言われるなら、御自分でやられたらどうですか?」と言ってみても、実際やる人は殆どいませんし出来る人もまた皆無と言っても過言ではありません。

事業家であれば如何に戦略を持って、描いた夢を実現するかということですが、知識が無ければ戦略を策定するところまで行きません。そして評論家にはならずに知識を発展させ、その知識を胆識に高める事が、真の事業家への道だと思います。

評論家それ自体職業になっているものですから、その道を極めるも勿論それはそれで良いと言えば良いでしょう。しかしそれを幾らやり続けたところで結局、評論家の域を出ることはありません。松下幸之助さんのような人物からすれば、これ正に「インテリの弱さ」と映るのでしょう。

「その知識にとらわれて“あれはむずかしい、これはできない”といった考えに陥ってしまうと、事がスムーズに運びにくくなる」とは、松下さんが言われている通りです。膨大な知識だけを身に付けてみても、却ってその人間の質の低下を招き得るかもしれないわけです。

知識はある程度持たねばなりませんが、学を学として知識に留めておく限り、殆ど実際の生活において役には立ちません。役立つレベルに持って行こうと思うなら、行を通じて血肉化する中で自分のものにして行かねばなりません。

王陽明の『伝習録』の中に「知は行の始めなり。行は知の成るなり」という言葉があります。知を得た人はどんどんとその知を行に移し、知と行とが一体になる「知行合一」的な動きに持って行かなければ、ある意味得たその知は本物にはならないのです。

その知識を使ってワークするか否かを見て、ワークしないのであればその知識の何所に誤りがあるのか等と試行錯誤を繰り返し、その中で上手くワークするようなものを作り上げて行くのです。身に付いた知識そのままに事は進んで行かないことが殆どですから、何事も先ずはやってみてからの話でしょう。

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