今回の参議院選挙で徳島・高知、島根・鳥取が合区にされたのはまことに残念。明治21年に完成した47都道府県制度に穴が空いた印象だ。
そんなこともあって、江戸300藩から47都道府県に移行した過程をマニアックに追いかけた本を書いてみた。題して、「消えた都道府県名の謎」(イースト新書Q)である。
廃藩置県は明治4年に行われたが、非常な誤解がある。廃藩置県は江戸時代の300藩を廃止して県に置き換えたと信じられているのだが、本当は、明治2年になって創設された府県と藩のうち藩を廃止して、府と県の二種類にしたのである。
なにしろ江戸時代に「藩」などと言うものはなかった。たとえば、いわゆる会津藩は、「松平肥後守御領知」、彦根藩は「井伊掃部頭御家中」などといわれていた。なにしろ、彦根藩は近江の領地も虫食い状だったし、東京の世田谷や栃木の佐野も領地だったから地方自治体と言うよりは不動産屋の所有地みたいなものだった。
だから、坂本龍馬も脱藩などしていない。脱走しただけだ。龍馬は松平(主要大名は松平を名乗った)土佐守の家臣で、土州(土佐とは言わなかった)の郷士だと名乗った。正しくは、江戸300諸侯であって300藩ではないのである。
そして、石高で全国の四分の一、重要都市を多く含んでいるので、実質的にはそれ以上の土地が幕府領、旗本領などだった。戊辰戦争の最中から、新政府はこれらを幕府の代官所などを改組した各地の府県の所管にしていった。また、小さい大名は本家に吸収されたり、新しく家老が諸侯になるなど出入りがあった。
明治2年の版籍奉還時に整理し、大名領は藩と呼ばれるようになった。このときに藩名が決められたが、それはすべて藩庁の所在地だった。従って、薩摩藩といったものは一度も存在したことはなく、明治2年に藩制度が創設されたときに鹿児島藩があったというだけだ。また、同名は避けられ、田辺が舞鶴に松山が高梁などに変更された。
その後も離合集散は続いたが、明治4年夏に大名を追放して藩も県となることになり3府302県制になった。そして、秋に3府72県制にまとめられ、このときから、県の名前として県庁所在地の郡の名前にすることが多くなった。はじめは小さい都市が県庁となった場合が多かったが、のちには、愛知県とか宮城県なども生まれた。さらに県の数は減らされ、最終的には47になった。
その過程で、いろいろ、いまはない面白い県があった。奈良県は堺県に入っていた、北海道は根室・札幌・函館の3県に分かれていた時代がある、東京に品川県や小菅県があった、栃木県のルーツは日光県だ、会津若松にも若松県というのがあった、三重県は四日市に県庁があったときの名残り、四国の一部は倉敷県だったなどというエピソードもいろいろある。
また、県庁はもともと藩だったところに置かれたケースもあれば県だったところの場合もあった。たとえば、近江国では3府72県の時代には、南部が幕府の大津代官所から発展した滋賀県、北部が彦根藩を基礎にした犬上県となり、それが合併して交通上の要地として重要性がより高かった大津に県庁が置かれた。
県の設置とか県名の決定において、特段、戊辰戦争の結果を反映して官軍に味方したところが優遇されたという兆候は皆無だ。
むしろ、しいていえば、途中段階では、官軍に参加した大名の城下町では、新政府への旧藩士たちの要求がうるさく、県庁が逃げ出したというケースの方が目立つ。たとえば、福井県庁が敦賀に、佐賀県庁が伊万里に移ったりしたこともある。しかし、最終的にはおさまるべきところに収まっている。
また、九州ですべての県名が県庁所在地名となっていることをもって、官軍優遇の結果という間違いをいう人がいるが、佐賀、大分、宮崎、鹿児島は郡名をもとに都市名が決まっており、とくに、大分、宮崎は明治になってからの都市名であることを付け加えておく。千葉や秋田も同様だ。
仙台藩や盛岡藩など大名領が分割されたのは戊辰戦争のせいという人もいるが、薩摩、佐賀、加賀、尾張など官軍側の諸藩も分割されており、まったく馬鹿げた妄想だ。