「ジンクス」と「自爆」と

若井 朝彦

ジンクスというものがある。大雑把に言って縁起かつぎのようなものだ。

いくらか呪術めいているし、またいくらか宗教的でもあって、絶対者に祈ることもある。だからといって厳密なものではなく、非宗教でも一向にかまわない。だからジンクスをこしらえるのに、別に聖職者に教えを乞うこともなく、聖典に通じていなくてもよい。要は個人の思いつきだ。

服の色、数字、たべもの、しぐさ、言葉、偶像。あらゆるものがジンクスの素材になろう。ジンクスというものは、基本的に個別のものなのである。

教会の儀礼だって根元はジンクスのようなものであったかもしれない。だが教会は公認してくれないだろう。しかしだからといってジンクスに凝るものが背教者の扱いを受けたり、まあ現代では火あぶりになることもない、たとえば日本や北米や西欧の場合。

呪術と宗教との間で、戯れているといった風情だ。心性としてはフェティシズム、ナルシズムにもいくらか接近しているものかもしれない。

こういったことが人間の余裕、遊びの範囲で納まってくれていれば、害は生じない。まれに「ジンクス通りに行かない!」だとか「縁起が悪い!」といってカンカンに怒る者にも出交わすが、心にゆとりのない人はどこにでもいるもので、そんな人はジンクスと関係ないところでも怒りちらしているにちがいないと思う。

本格的に信心のあるという人からすれば、そんなインスタントなものは一段下に見ているのかもしれないが、こういうことができる世の中というものは決して捨てたものではない。教会や教団の力がなお弱まっている現代、宗教や呪術はよりパーソナルになってきているのではあるまいか、おそらく日本や西欧や北米の場合は。

ところで、この宗教的なものの個別化が、先鋭化した人間を生み出すこともある。

自分で絶対者を想定し、その下命を受けて、綿密に計画を立て、実行の段階では短時間の間に見ず知らずの人間を殺し、そして殺されて死んでゆく。

宗教的な情報が、過去の例の参照が、必要なものが、いずれも容易に得られる現代に、そういう個人がいっそう増えてきた。それは教団でもなく、集団でもなく、部族でもなく、家族でもなく、個人なのだ。

宗教との関係は慣習以上のものではなく、自分に信仰心があるともないとも考えず生きてきて、ジンクスどころか戒律も守ることがなかった者が、何かを契機に変貌し、こういう行動に出る。

わたしの生温い考えではこうだ。宗教とは、人間とその生命を尊重する限りにおいて絶対者の栄光がある。だが彼等はまったくそうではないらしい。

わたしの頭ではこのあたりが一杯一杯だ。たとえば心理学者や精神医学者に、ジンクスに関する専門家がいたとして、そのような人は、このテロリズムの個人化について、どう考えているのだろう。そういう人の見解をぜひ聞きたいと思うのだが。

2016/07/19 若井 朝彦

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