才と徳

『経済界』のサイトに、「稼ぐ人の才能は、特別なものか」(16年6月25日)という記事があり、その中で筆者は『尽きないモチベーションを持って、一貫して行動が続くから能力が磨かれ、それが自分だけの「才能」になる』等と主張しています。此の「才」とは「あの人、優れているなぁ、物凄い才能だなぁ」というふうに、どちらかと言うと良い意味で使う字ですが、之を副詞で読むと「わずか」となります。ですから才だけあっても、それだけでは「わずか」に過ぎません。才を活かすには、「徳」がなければなりません。

では才と徳のどちらが大事かと言いますと、例えば中国・北宋の名臣であった司馬温公(1019年-1086年)は、その著書『資治通鑑(しじつがん)』の中で次の通り、才徳の見地から人物判定をしています――才と徳という二つの人間の大切な要素、これが完全なる調和をもって大きな発達をしているものは聖人。……およそ才が徳に勝てるものはこれを引っ括めて小人という型にはめる。これに反して徳が才に勝れているものは、これを引っ括めて君子という型にはめる。

「小人」の字義より述べますと、小人の「小」の字は「八」と「亅」に分かれます。「八」は「微少」を意味し、「亅」は「微細」を意味します。つまり、どちらも「わずか」ということです。即ち小人とは、自分のことだけしか考えず他のために尽くすことの出来ない人、小人物を指します。その反対に、自分の才能を他のために尽くすことの出来る者は、それだけ人物が大きいことになりますから、之を小人に対して君子と言います。

世に才人をもて囃しているような風潮がありますが、なぜ才はもて囃され徳はその限りでないかと言うなれば、才をあらわすは比較的簡単なことだからでしょう。逆に徳をあらわすことは中々難しいことです。本来、徳のある人は敢えてそれをあらわそうとしないものです。徳は極平凡な応対事例や普通の日常生活、あるいはその人の出処進退であらわれたり、反対に国家の緊急事態で才というよりも、やはり徳を持った人物が必要となってくるわけです。

このように、あらわれ易い才とは対照的に、徳は中々見分け難いものであります。才はあらわれ易いが故、「能ある鷹は爪を隠す」といった類の戒めが、昔から多くあるわけです。その才を余りにひけらかしたらば、そのうち足をすくわれることになるのですが、才人であればある程その才をあらわそうとしてしまい、寧ろ結果は余り良い方向に行かないのが常であります。

安岡正篤先生は、人生を生きる上で大事な三つのことの一つに、「常に陰徳を志すこと」を挙げておられます。陰徳を積むというのは、「俺は世のため人のために之だけのことをしたんだ!」と言って回るのではなく、誰見ざる聞かざるの中で世に良いと思うことに対して一生懸命に取り組むということです。多くの人が気付かない目立たぬ徳の方には況して、陰徳というものもあるわけです。

『論語』の「憲問第十四の三十五」に「驥(き)は其の力を稱(しょう)せず。その徳を稱するなり」とあります。つまり孔子の言うところ、「一日に千里も駆ける駿足を誇る名馬も、その馬の持つ力のみで勝っているのではない。良馬として兼ね備えていなければいけない条件、調教や訓練によって培われた能力、人に例えれば才能と徳があるためである。要するに才能に優れただけではなく、徳を修め徳を磨いて初めて俊足の名馬になる」ということです。前述した通り才だけでは「わずか」であって、徳を併せて初めてその才も生きて一人前になり得るのです。

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