自己中心的世界

岡本 裕明

自己中心、口語では「自己チュー」とも言い、一般社会では身勝手なふるまいや他人のことを顧みない行動と捉えられます。これをもう少し格好良い言葉でいうとナショナリズムと言えるでしょう。学問の世界ではナショナリズムをやけに難しく解釈しようとしていますが、要は「自己チュー」の国家版と思って頂いても大方間違いではありません。

オバマ大統領と習近平国家主席が中国でのG20を前に数時間にわたり議論、その成果品は温暖化対策の「パリ協定」の米中同時批准であります。私は昨年12月COP21が採択された際、このブログで「内容を細かく見ていけばまだまだ緩いところは多いのですが、大きな進展につながったと思います」と記しています。京都プロトコルよりはるかに成功だったその理由は環境という世界共通の問題を抱えて異論を出せない状況にあったからでありましょう。

ところが数時間に及ぶ両巨頭の会談はパリ協定の同時批准以外、ほかの点で全く足並みがそろわず、お互いがお互いの言いたいことを述べて終わったような感じでありました。それは軍事や経済といった自己の利益を制約するような事態は避けたく、国家元首として交渉は「勝ち取るものである」というこだわりの中で一歩も譲らずの姿勢を貫き通すからでしょう。

アップルがEUの調査で巨額の税的便益をアイルランドから受けていたと判断され、1兆5000億円の追徴を言い渡されました。これに対してアップルと優遇税を提示した当事国のアイルランドは不服として控訴するそうです。この構図が奇妙なのはEUはアップル社にアイルランドへ差額の税額を払えと判断を下したのに対してアイルランドが「そんなの不服だ、アップルは自分の国にそんな金を払わなくていい」と言っている点です。

これはアイルランドからしたらメンツの問題でしょう。優遇税で優良企業を誘致するという「自己チュー」な論理を振りかざしたのにEUから「ふざけるな」と喝が入ったというのが一言でいう問題の本質です。

イアン ブレマー氏がG0の世界について述べていますが、なぜ自己中心的な世界になったのでしょう?これは案外国家間の問題だけではなく、会社でも家庭でも起きていませんか?最近の社会事件も犯人の犯行理由が自己中心的でフレキシビリティがなく、YES/NOですべてが片づけられています。それゆえ、悲惨な殺人事件がどんどん起きているのは犯人の思想が「生きる/死ぬ」の二者選択なっているからです。これはデジタル世代故の社会現象だといえないでしょうか?

コンピューターのもともとは0と1の組み合わせです。そこに曖昧さは原則としてありません。(ファジーというものが一時流行ったことはありますが。)今、世の中に起きていることはアナログをデジタル化する猛烈で加速度的な展開であります。自動運転の車の技術も街中にある監視カメラもこれはすべてアナログの世界をカメラを通じてデジタルに変換する技術からきています。

コンピューターの世界におけるデジタルの進化は結構なことなのですが、人間社会に於いて判断基準が全てデジタル化してしまえば世の中、裁判所は必要なくなります。訴状と証拠をコンピューターに読み込ませれば法律と過去の判決事例から自動的に判決が下るようになればよいだけです。が、人間社会はそれで満足するのでしょうか?

もう一つ我々が「自己チュー」になってきたその理由は世の中が複雑になったことであります。ルールにコンプライアンス、規範に基準だらけで何が何だかわからないのです。築地市場の移転問題でも切り口が多すぎてどの部分に重点を置くかで判断はどうにでもなるわけです。だから舛添さんは問題にしなかったけれど小池さんは問題にすることができる、これも一種の「自己チュー」であります。

「ああ言えばこう言う」という議論はオバマさんと習さんの議論だけではなく、世の中、夫婦の会話に至るまでどこにでも存在し、昔に比べてその切り口が増え、ややっこしくなってきたともいえるでしょう。

「あぁ、こんな世界、嫌だ」といって島で自給自足に近い生活を楽しんでいる知人がいますが、逃げてどうにかなるものでもありません。共存共栄、利他なんていうと「おまえはそっちか」と勘違いされるのもデジタル社会ゆえの難しさです。今日はアナログのレコードでもかけてみたい気分になりそうです。

では今日はこのぐらいで。

岡本裕明 ブログ 外から見る日本、みられる日本人 9月4日付より