なぜ、いま田中角栄なのか?

田原 総一朗

田原総一朗いま、書店には「田中角栄」本がずらりと並んでいる。もはや「田中角栄待望論」というべき現象だ。

政治評論の世界での僕のデビューは『中央公論』1976年7月号の「アメリカの虎の尾を踏んだ田中角栄」だった。

その年の2月、田中さんはロッキード事件で5億円を受け取ったとして逮捕された。僕はこの成り行きに強い疑問を持った。そこで周辺に徹底取材し、「田中はアメリカに陥れられた」、すなわち「虎の尾を踏んだ」と書いたのだ。

僕が会った田中さんは、想像したとおりの強烈な人だった。田中さんに会うと、誰もが彼に引きつけられた。僕が日本の政治に強い関心を持ったのも、この「田中角栄」という人物がきっかけだ。

1981年、田中さんにインタビューする機会を得たときのことだ。僕は、田中さんの自宅兼事務所である通称「目白御殿」を訪れた。ところが、約束の時間を1時間過ぎても田中さんが現れない。当時の秘書、早坂茂三さんにどうしたのかと尋ねると、「実は角さんから『田原についての資料を一貫目、集めてくれ』と言われましてね」と返ってきたのだ。

一貫目とは、およそ3.75kgである。本当にそんなに集めたのかはわからない。しかし、ともかく田中さんがその資料を読み込んでいて、だから遅れているというのだ。豪放磊落のようでありながら、一体どれだけ繊細な人なのか。僕はそのとき、改めて「田中角栄」に興味を持ったのである。

田中さんは、よく「コンピュータ付きブルドーザー」と評された。「ブルドーザー」は、その類(たぐい)まれなる行動力ゆえであり、「コンピュータ」である所以(ゆえん)は、とてつもない記憶力のよさにあった。

田中さんは、『広辞苑』や英和辞書、漢和辞典など片っ端から暗記し、暗記し終えたページは食べてしまったという。「六法全書」には特に詳しかった。議員立法33本という数字は、彼の後にも先にも超えた議員はいない。記憶力は人心掌握術に大いに役立った。たとえば、官僚の入省年次、誕生日、結婚記念日などをすべて記憶しており、欠かさず贈り物をしたという。

後の首相、竹下登さんも、その掌握術を真似ようとしたが、彼にはそこまでの記憶力はなかったそうだ。だから竹下さんは、覚えておきたいことをすべて書きつけておいた。このメモは「竹下の巻紙」と呼ばれていた。

田中さんは、キャラクターだけでなく、構想力も一流だった。田中さんが発表した「都市政策大綱」という論文がある。簡単に言えば、日本列島をひとつの大きな都市圏にしようという構想だ。これが『日本列島改造論』につながり、そのおかげで現在、北海道から九州まで1日で往復できるようになったのだ。

田中さんへの3度めのインタビューを終えた日、「ちょっと田原、待ってろ」と言われ、僕の目の前に白い封筒が置かれた。現金だとすぐにわかった。僕は、とうとう来たかと思った。これを受け取れば、ジャーナリストとしての終わりを意味する。だが、受け取らないと田中さんのメンツをつぶすことになる。迷いに迷った末、いったん、封筒を受け取って、その足で事務所に行き、秘書の早坂さんに「お返ししたい。もしダメなら僕からの寄付というかたちで受け取ってほしい」と伝えたのだ。早坂さんは快く受けてくれた。その後、彼とは非常にいい関係を続けた。

実は、この出来事は、その後の僕にとって、大変なメリットとなった。政治ジャーナリストをしていると、さまざまな政治家が秘書などを介してお金を持ってくるのだが、「あの角栄さんのお金を受け取らなかったのだから、あなたからもいただくわけにはいかない」と、穏便に断ることができるのだ。田中さんが引退し、亡くなってからもう何年も経つというのに、いまだにこの台詞(せりふ)が通用する。なんという存在感であろうか。

今、田中角栄ブームが起きているのは、現在の政治に構想力が足りないせいだろう。アベノミクスの第1の矢の「金融政策」と、第2の矢の「財政政策」が奏功して、株価が上がった。しかし、第3の矢である「成長戦略」のための構造改革は進んでいない。構造改革は、改革した後どうするのかという構想が必要なのに、そこを描き切れないからだ。

もし、いま「田中角栄」がいたら、新しい構想を打ち出して国民に見せていただろう。守りに入ってばかりでチャレンジしない政治家たちの中からは、新たな「田中角栄」は出てこない、と僕は思う。政治家たちは、この「田中角栄ブーム」を、どう見るのだろうか。


編集部より:このブログは「田原総一朗 公式ブログ」2016年9月5日の記事を転載させていただきました。転載を快諾いただいた田原氏、田原事務所に心より感謝いたします(アイキャッチ画像は文藝春秋の写真を編集部で引用)。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、「田原総一朗 公式ブログ」をご覧ください。