定年までの勤続を前提とし、多分に年功序列的とされた日本の人事制度は、高度経済成長を経て、安定期に入った昭和の50年頃の日本企業に確立していたあり方をいうのではないか。
ただし、これを、いわゆる終身雇用として、特殊日本的なものと考えるのは適当ではない。結果として定年まで勤めるかどうかは、雇われている側の人間の態度の問題であって、人事制度の問題ではないからだ。
人事制度は、定年前に退職する人のある可能性を考慮しつつも、原則として定年まで勤続することを前提にして、設計されるべきもので、そこに、特殊日本的なものがあるはずもない。仮に、特殊だったとしたら、事実として、離職が少なかったこと、特に大企業における離職が少なかったことである。
むしろ、特殊日本的なものは、個人よりも組織の一体性を重視する組織論にあったと思われる。もちろん、日本的ということは、少しも否定的な意味ではない。組織全体としての成果のなかに個々人の貢献をみるのか、個々人の成果の積み上げとして組織全体の成果をみるかは、日本的かどうかということではなくて、世界共通の組織に関する哲学的な問題だからである。単に、歴史的な事実として、当時の日本においては、組織重視の考え方が強かったというだけのことだ。
さて、組織全体の成果が先にあって、そのなかに個々人の貢献を分析的に検討する限り、一種の分業の理論が働くから、各人それぞれの役割において、応分に貢献しているとの判断に傾くであろうことは、当然である。そうなれば、相対的に、個人間の貢献評価の格差はつきにくくなる。
ところが、本当に個人間格差が小さかったかというと、定年退職までの勤続期間全体における報酬の格差は、それなりに大きかったのも事実である。しかも、一定以上の職位に到達した人には、退職後の就職先も用意される場合が多く、生涯所得では、さらに格差が大きくなっていた。
つまり、短期的な貢献と処遇との一致ではなくて、勤務期間全体、あるいは生涯を通じた均衡が図られていたのであり、昇格に伴う昇給によって貢献と処遇との一致が図られるように工夫されていたので、昇格の差が処遇の差を作っていたのだ。
昇格は、例えば、主任級から課長級、課長級から次長級、次長級から部長級、次は役員というように、5年から10年くらいの大きな節目をもっていた。その節目の期間が人事評価の基本的な期間だったのである。
ところで、悪名高い日本の年功序列だが、昇格が年功序列であったかどうかは、大いに疑問である。上位の資格ほど定員は少なく、上にいけばいくほど、定員は急激に少なくなるから、順調に昇格の階段を上がれる人は、ほんの一握りである。ほとんどの人が、途中の資格で滞留する。実際には、大半が課長級以下で終わったのだろう。ということは、最低限の年限で昇格を続けて出世街道を歩む幹部候補生の下には、大量の年長者がいたということである。
年功によっては、決して序列はつけられていなかった。年功に大きな意味があったのは、資格昇格の時期が勤続年数に依存していたというだけのことである。
森本紀行
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
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