帝国日本の稚拙なグローバル化:『大東亜共栄圏』

池田 信夫


大東亜共栄圏といえば、日本の軍国主義が使った無内容なスローガンにすぎないと思われているが、著者はこのキーワードを史料の中で執拗に追いかけ、その意外な実態を明らかにする。この言葉を最初に使ったのは、1940年8月の松岡洋右外相の談話だが、その背景には今とは違う世界情勢の認識があった。

当時はヨーロッパでドイツが破竹の快進撃を続けてフランスが占領され、イギリスが敗れるのも時間の問題だと思われていた。この情勢認識のもとに松岡は三国同盟を結び、世界をそれぞれの共栄圏に分割しようとしたのだ。これは日・独・伊・米・英・ソの6ヶ国で世界を分割するブロック経済の構想だった。

当時としては、これはそれほど突飛な構想ではなかった。アメリカの「モンロー主義」は南北アメリカ大陸を一つの勢力圏とする構想であり、それに対して日本は太平洋の西側を勢力圏とし、ドイツを中心とするヨーロッパの勢力圏と、それぞれの圏内の権益を相互承認する条約を結ぼうというのが松岡の構想だった。

しかしアメリカは相互承認を拒み、日本の中国や南方からの撤兵を求めた。このとき東條英機が「ここで引き下がっては20万の英霊に申し訳が立たぬ」といったのは有名だが、これは単なるサンクコストの錯覚ではなかった。大東亜共栄圏は勢力圏の中で自給する計画だったので、中国から撤兵すると戦時国債でファイナンスした軍事的な投資が回収できず、財政が破綻してしまうのだ。

当時の政府や軍の首脳もアメリカとの「国力の懸隔」が非常に大きいことは認識していたが、それが短期決戦の賭けに出た理由だった。それまでの戦争では勝敗を決めるのは経済力ではなく、敵国で革命が起こって戦争が継続できなくなる事態だったので、緒戦で大打撃を与えれば、アメリカ国内で厭戦気分が高まって勝てる可能性もあると考えた。

逆にアメリカの要求に応じて中国から撤兵すると、財政が破綻して日本経済は崩壊するので、「やるなら今しかない」という日米開戦はそれなりに合理的だった。しかし勢力圏の拡大は出たとこ勝負で、ガバナンスは不在だった。各国に傀儡政権をつくって日本が間接支配する構想も失敗に終わった。結果的には日本の南方支配は東南アジア各国の独立を助けたが、それはイギリスなどに代わって支配する予定だった日本が自滅したからだ。

近代日本は西洋をまねてアジアをグローバル化しようとしたが、植民地支配のノウハウをもっていなかったので、莫大な犠牲を出しただけに終わった。その失敗に学ぶには、単に「アジアに対する戦争責任」を糾弾するのではなく、日本の長期的な国家戦略の欠如や場当たり的な意思決定といった本質的な欠陥を問い直す必要がある。