【行動経済学②】人間が煩悩を断ち切るとマーケッターが失業する?

馬場 正博

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どうせ、あのぶどうはすっぱいさ

ご存知のイソップ物語「キツネとブドウ」のキツネの捨て台詞です。森の中でキツネはうまそうなブドウがなっているのを見つけます。何とかして取ろうとするのですが、高くてどうしても取れません。あきらめて、キツネは「どうせ、あのブドウはすっぱいさ」とつぶやきます。

負け惜しみで、心にもないことを言ってしまうキツネをからかった寓話なのですが、ここではキツネは他のイソップ物語のような他の誰かを騙そうとしてキツネではありません。騙そうとしているのは自分自身です。

欲しいものが得られないとき、人間はどのような反応をするでしょうか。他人には欲しくないようなふりをしても、実際にはますます欲しくなるということはあるでしょう。キツネも本当はブドウなんてもともと大して好きではなかったのに、それ以後ひどくブドウが好きになってしまうかもしれません。

しかし、欲しいものがどうしても得られないとき、たとえば視力を永久に失ってしまう、歩行ができなくなり車椅子の生活になる、そういう非常に不幸な事態になったとき、人は失ったものをずっと欲しがり続けるようなことはしないで、その状態を次第に受け入れるようになります。別に「どうせ、あのブドウはすっぱいさ」と無理に自分に言い聞かせなくてもです。

逆に、自分が現に持っているものに対しては、一般に人は高い評価をする傾向があります。たとえば、株や競馬の予想をするとき、その株や馬券を所有してしまうと、株が値上がりしたり、馬券が的中したりする確率を高く見積もるようになることが知られています。

自己評価の高さはむしろ社会的な安定をもたらすか?

「親の欲目」というのは親が自分の子供を世間が思う以上に高く評価することですが、無能な息子を後継者にしようとするような社長は息子に対する愛情だけでなく、本気で自分の息子が他の部下より優秀に見えていることが多いのです。

もちろん自分の持ちものの中には自分自身も入ります。人事考課では本人は不当に低く評価されていると思うことが多いのですが、これも自分の株が値上がりしそうだと思うのと原理は同じです。

自分の持っているものを高く評価し、持っていないものを低く評価するのは、視野が狭まくて色々な軋轢を生じやすい困ったことだと思われるかもしれません。イソップ物語は決してキツネの態度を肯定的には描いていません。しかし、このような性癖がなければ人間社会はそれこそ大変困ったことになってしまいます。

持っているものに満足できず、ないものばかりを欲しがるようになり、それが得られない限り幸せになれなくなってしまったら、おそらく大部分の人は極めて不幸な状態になってしまうでしょう。幸いなことに、人は自分の現在の状態を所有してないものは高く、所有していないものは低く評価することで、比較的安定的な精神状態を維持しているのです。

人間の至福は短期的にしか続かない

不幸には慣れるのと逆に(あるいは同様に)、人は自分の状態に過剰に幸福感を持ち続けるということもありません。たとえば、受験に合格した、宝くじで1等が当たった、というとき人は至福の状態になりますが、それが永続するということもありません。

宝くじで1等を当たった人が1年後にどのような精神状態になっているかというと、普通はまったく平常な状態に戻ってしまいます。むしろ、1年の間に当たった金を無駄に使ってしまったという後悔にさいなまれていたり、金を失うのではないかという恐怖に悩まされたり、当選前より多少不幸になっている場合もあります。もし、幸福になるために宝くじを買うのだとすると、無意味と言ってもいいくらいです。

過剰な幸福感も、不幸感も長続きせず、次第に平常な状態に落ち着いていくというのは、人間の感情における一種の免疫反応だと考えてもいいでしょう。特に不幸に対しては、ひどく打ちひしがれてしまうと、本当に免疫力が低下して、感染症や癌に冒されやすくなったりしますし、人間の場合は他の動物と違って自殺のようなことまでしてしまうので、進化論的な生存競争で考えても、不幸な状態に対し抵抗力を持つというのは意味があります。

ただ社会全体を考えると、現状に満足する傾向があまりに強いと、社会の進歩はなくなってしまいます。革命は「こんな世の中では不幸だ」と考える人たちによって起こされますし、発明は「こんな不便は我慢できない」と思う人によって成し遂げられます。逆に言えば、誰でも革命家や発明家になれないのは、人間が正常な感情の免疫機能を持っている以上当たり前だということになります。

世の中が革命家や発明家だらけだと社会が落ち着かなくなってしまうかもしれませんが、みんなが「今持っているものより、こっち方がいい」または「持っていないけど、欲しい」と思ってくれないと、ビジネスは成り立ちません。

煩悩を刺激することもマーケティング活動

もともとの動物としての生存していくためだけなら、人間の欲求は空腹になれば食物が欲しくなり、喉が渇けば水が欲しくなるというレベルで十分なはずです。ライオンなら獲物を取って満腹になると、そばをシマウマが通っても襲おうとしません。必要ないからです。

ところが人間は使いきれないほど(そもそも何に使うかが問題ですが)金があっても、もっと金を欲しがるというのはむしろ普通ですし、趣味で何かを集め始めると必要性とは無関係に集めようとします。人類が文明を作り上げるには、大きい前頭葉だけでは不十分で、どれほど所有しても満足できないで、無限に欲望を持続できるという特質が不可欠だったはずです。

個体としての人間の健康状態を考えると、所有していないものに対し欲望を持続させない、つまり欲求不満で不幸な状態になって、免疫力を低下させないほうが有利なはずです。ところが、社会の進歩を考えると、革命家、発明家のような不満発見型の人間がいたり、無限に欲望を拡大させる性質があったほうが望ましいということになります。

人間が進化の過程のどこで、無限の欲望を持てるようになったかは定かではありませんし、無限の欲望を持てる人間がどのようにして、免疫力の低下という代償を払っても、生存競争で相対的に有利になったかはわかりませんが、無限の欲望を持つことは、個々人を考えると不幸を増大させる原因になりかねません。宗教的な解脱が無限の欲望という煩悩を断ち切ることなのは、まさにその意味なのでしょう。

最後に付け加えると、普通の人は自分の現在の状態に満足しやすいわけですから、何もしなければ、ほとんどの人の購買意欲はかきたてられません。マーケティングとは、製品やサービスの素晴らしさを訴えることで「それを持っていないのは不幸だ」と思い込ませるため行う活動と言えます。煩悩の刺激こそがマーケティングの鍵なのです。


編集部より:このブログは馬場正博氏の「GIXo」での連載「ご隠居の視点」2014年6月26日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はGIXoをご覧ください。