私は長年安倍晋三支持者で、2007年に当時の民主党が大勝して安倍氏が辞めることになった時には本当に精神的ショックを受けて、その後数年間ブログその他のネットでの活動を一切辞めちゃったというぐらいの入れ込みようだったんですが。
最近は安倍氏については、「無名時代から応援していたアイドルが超売れっ子になって、別に自分が”推す”必要もなくなってきた感」があるのと、あと、彼以外の選択肢があまりにもなさすぎるのも不健全だと思うようになって、何らかの「現実的代替案になりえる野党」が日本にも安定的に存在する状況になって欲しいと強く思うようになりました。
なぜそういうのが必要かというと、今のように
安倍政権がやってること凄い大事だと思うし基本的に支持してる(特に実務的な部分で)んだけど、たまに閣僚が物凄い時代錯誤に復古主義的なこと言い出したりとか、ちょっとアレな改憲草案とか、「右すぎる部分」はちょっとねえ・・・ま、でも他に選択肢ないしやらせとくしかないか
という状況が続くと、「過剰に右な部分」は「必需品にどうしてもくっついてくるオマケ」みたいな感じでずっと摂取し続けなくちゃいけないからです。ちょっとウザいなと思う部分があっても気軽にやめられない。熱い気持ちでデモやってる人たちに共感する部分がちょっとはあってもそれを現実に反映させられない。
と、言うわけで、普通に考えるとそれに一番近い”はず”の民進党の人たちが、「代替案になりえる野党」になっていくにはどうしたらいいのかについて、いくつか考えたことがあるので書きます。「アドバイス」とか言うと上から目線なので良くないですが、まあ「こうなってってくれたらいいなあ」ぐらいの要望だと思って聞いていただければと思います。
8月の後半にフジテレビのネット放送の番組に呼ばれて(こちらのリンク先から動画も見れます)、そこで「リベラル勢力が安倍氏に勝つためには、憲法問題その他だけをクローズアップして戦うよりも、現実的代替案になりえる信頼感を持った野党を創ることが、唯一有効な戦略なんだ」という話をして、私の記事としてはかなり反響があったので、それについてもう少し考えを深めてみた内容ということになります。
ま、「民進党が」ということになってますが、趣旨的には「今の自民党のカタチ以外」で日本が安定的な政権運営ができるとしたらどういうムーブメントになるのか?という部分を深掘りしていくつもりなので、将来今の自民党から分離独立した勢力が、民進・維新その他にバラバラに分散してしまっている「このあたり」に近い議員を糾合して何かやる場合でもあてはまる話になっていると思います(そっちの方が普通にありえると感じる人も多いかも)。
最近は結構ブログあげるたびに結構多くの人に読んでもらえるようになってるので、あまり心配してませんが、お近くに「民進党(あるいは何らかの代替野党の可能性を模索する勢力)」の方がいらしたら回覧いただけると幸いです。
少し長い力作なので何日かに分けて掲載します。いつもどおり、アゴラやハフィントンポストその他色んなサイトにも転載されます。
目次は以下の通りです。
0(その前に編)蓮舫氏の国籍問題をどう乗り切るか?
1(はじめの一歩編)惰性からの脱却には優先順位付けの共有が大事
2(大枠の方針編)「批判」だけでなく「代替案」だけでなく「●●」を考えることが本当の責任
3(根本思想編)「現実路線は多くの原理主義的左翼への裏切りではない」という意志を示せるかが鍵
今日は「0」を掲載します。
0(その前に編)蓮舫氏の国籍問題をどう乗り切るか?
この記事はあまり蓮舫氏個人とは関係なく「民進党の今後」について書こうと思って準備していたので、趣旨と外れる部分もあるんですが、ちょっと無視できないかもしれない蓮舫さんの国籍問題について本題に入る前に少しだけ触れます。
でもこれは蓮舫さん個人の問題ではなく、日本人が”自民党以外で”を考え始めると普遍的にぶち当たる問題でもあるように思います。冒頭に掲載した絵のような感じで、”自民党以外”となった時にあまりにも脱臭消毒された”国際人”風の”多くの日本人の生活実感からかけ離れたアイデンティティ”しか描けなくなってしまうことの問題と言えます。
”自民党的なもの”を脱却するには、彼らが持っているリアリティを超えるリアリティをぶつけなくてはいけません。そこに理想をあくまで失わずに取り組めるかどうかが問われており、奇しくも蓮舫さん個人のバックグラウンドと共鳴して顕在化している問題なのだと考えてみたいと思っています。
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先週色々と忙しくてネットのニュースやソーシャルメディアをあまり見てなかったんですが、この記事を書くために色々とアクセスしたら、「蓮舫叩き」が知らないうちに物凄い勢いになっていて驚きました。
人によっては、もうこれは決して擁護できないレベルの問題であり、このまま蓮舫を代表にしたら民進党は崩壊し滅亡するだろう・・・ぐらいのことを言ってる人もいて、個人的には「そこまでかな?」というのは大いに疑問ですが、正直言って本当のところはわかりません。案外全然大丈夫かもしれないし、批判が収まらなくて結局辞任しなくちゃいけないほどなのかもしれない。
ただ、政治資金の虚偽記載とかでもそうなんですが、結局「明確な罰則」とかで引っかからないようなものは、いかに追求者がモレのない完璧な論理で追い詰めているつもりでも、実際には「日本社会の空気で決まる」というか、「まあこのへんで」と思われればOKだし、地道な追求がさらに火種につながっていけば辞任せざるを得なくなるという類の問題なんだろうと思います。
色々と昔の雑誌での発言なども発掘されてるらしいですが、昔のメディアで本人が「自分は台湾籍で」とか「二重国籍で」とか言ってたとしても、当人的には「(大陸系とは違うという意味で)自分は”台湾籍”なんだけど」とか、「(日台2つのルーツを持っている程度の意味で)”二重国籍”だった」的に非常に適当に用語を使ってる感じもするので、「そう言っていたから虚偽に違いない」というのはちょっと勇み足かなと思います。(厳密に言葉を使いたい人にはイライラする話かもしれませんが普通にありえる範囲のことかと・・・特に日本の選挙の立候補前みたいですし)
個人的な感覚をいうと、例えば私のクライアントに「伝統的な地方の重鎮的企業の息子さん」とか、「100年以上続く和菓子屋さんの娘さん」という立場で生まれ育ってきた人がいますが、その「受け継いだモノ」が大きければ大きいほど、若いころは反発を覚えたりするのが当然っちゃ当然で、ずっと長年の若い頃からの発言を拾っていったら色々とその「受け継いだもの」をディスってることが多いだろうと思います。
でも人間成熟してくると、色々と反発を持っていた「自分が受け継いだもの」に対してだんだん理解が進んできて、ある時点で「意志を持って引き受ける」ような成長をするのが理想だと私は思いますし、「放蕩息子のたとえ話」じゃないですが、本当に「意志を持って選ぶ」となった時には、人生の前半において寄り道を多少している存在の方が実際には信頼できたりする感覚があります。
なので、蓮舫さんについても過去どんな発言してたとかではなくて、「蓮舫さんにとって日本人であるということは」ということについて「意志を持って引き受けて答を出していく今後」が大事なんだと思います。中華系の血を受け継ぎつつ、日本人の母の元に生まれ、日本社会に日本語を母語として育ち、日本で仕事をし日本人と結婚して日本で子育てをされている蓮舫さんのリアリティが問われている。
その「リアリティ」には、「狭い意味でこうでなくちゃ日本人じゃないという押し付け」からははみ出しているものが多いでしょうが、しかし一方で、「理解のない日本社会に抑圧されてきた”中華系”の自分」という自己イメージも薄っぺらいレッテルにすぎず、本当に生きてきた365日×50年弱のリアリティから見るとほんの一部の表層しか捉えられない見方だろうと思います。
今のところ、「狭い意味での日本人のレッテル」からはみ出しているからといって、「狭い意味での非常に脱臭消毒された”国際人のレッテル”」的な自己像で押し通そうとしているから多くの日本人から嫌われているようなところがあるわけですが、これを機会に、「本当に自分にとって日本に生きているというのはどういうことなのか」というのを深く問い直し、それが「単に日本以外のルーツを持ってる人だけが使える特権としての自己像」ではなくて、「旧来の日本社会に違和感があるが、しかしそこで生きていこうともしている多くの人々」に共通する普遍性を持ったビジョンに転換できるかが問われているのだと思います。
別に中華系じゃなくてもルーツが別の外国になくても、日本に生きるってのは結構面倒くさい部分もありますよね。もっと身軽で個人主義的な環境で生きれたらいいなあと思ったことが一度もない日本人というのはほぼいないでしょう。だけど、なんだかんだいって「それ(日本人であること)」を引き受けてみんな生きているわけです。そうやってみんなで協力しあってある種の秩序感やら美徳やらを獲得している「日本という国のあり方」ってのがあるわけで。
そこで、「ルーツを外国に持っているからといって”狭量な日本人ども”に抑圧された私たち」ビジョンで語られると、何代遡っても関西人しか出てきそうにない僕なんかは全然参加共感するヨスガがないわけです。
でも、「日本という国の伝統と、現代的な個人主義的感性の間で、どちらの良いところも消さないように、でも無駄におたがい息苦しい思いをしなくて済むように、生きるにはどうしたらいいだろうか?」という問いならば、純血に関西人な僕も、日台ハーフの蓮舫さんも、日韓ハーフの私の友人も、同じモードで参加できる。
今の時代、「狭量なナショナリズム」でないとしたら・・・といった時の代替選択肢が、「”郷に入りては郷に従え要素”がゼロになるまで決して許さない」ぐらいの極端なモードしかないからこそ分断が生まれるわけで、でも台湾をルーツに持ちつつ日本に生まれ育って日本で仕事をしてきた蓮舫さんの中にあるリアリティはそんな薄っぺらいものではないはずです。
そういう「より広い普遍性を持った価値」として「確かに台湾系だけど、自分だって日本のインサイダーなんだ」という決意と「引き受ける覚悟」と・・・・ってあんま大げさな言葉になるのは良くないんですが、要するに
「日本社会に抑圧された国際人の私が語るビジョン」
ではなくて、
「色んな意味で”自民党風の日本”には違和感あるタイプなんだけど、でも俺日本に生きることにしたんだよね。俺らの良さもちゃんと日本社会に反映させなきゃじゃね?」
という一貫したイメージが示せるかどうかが大事ってことですね。
そういう本質的な転換は単なるレッテル貼りからの欧米風の論理展開では実現しえず、「ルーツが他の国にあったりLGBTだったりしないと光り輝く”今解放されるべき存在”にはなれないらしい」というヒガミを抱えている世界中のフツウの人々の反抗としての「全世界的右傾化ポピュリズム」問題の根幹に、「生身すぎるほど生身」のレベルから丁寧に光を当ててゆくことになるでしょう。
そういう「本質的なチャレンジ」だと思って引き受けて欲しいと思っています。ある意味で昨今の世界最先端の「課題そのもの」みたいなものが、「レッテルからリアリティへのラストワンマイル」を丁寧に生身に昇華することによって活路が見いだせるはずです。
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テクニカルなことを言うと、国籍問題で今後何か指摘が出てきたとしても淡々と事実を説明し、誤解を与えたことを謝罪し、後は堂々としてればよくて、決して「こういう問題が取りざたされるのはレイシズムだ」的な逆批判をしないことが重要だと思います。その態度が一番、「日本という場」への責任感を持って生きている自覚のある人にとってカチンと来て火に油を注ぐ感じがしますし、実際にはアメリカはじめ色んな進歩主義的っぽい国でも同様のチェックはむしろ日本以上に課されることが多いようですし。(ちなみに、民進党と関係ない左翼論客さんが自分の原稿でやるのは全然OKなんですが、民進党関係者がそれに相乗りしてみせるのはやめたほうがいいってことですね。特に左翼メディアから「あいつらケシカランですよね?」的に同意を求めて誘導質問してきたりする時に注意です)
「自分たちのリーダーは日本へのカタチに表された忠誠心で選びたいという方向性で投票する人」っていうのは確実にいるし、彼らの懸念が全く無意味というわけでもないし、彼らがそういう行動をすることを禁止するなどそれこそ全体主義です。
将来的に色んなバックグラウンドの人が共生できる社会にしていくというビジョンと、それはそうと「国籍問題が大事だと思う人の思いを軽視しない」ということは両立可能なことだと思いますし両立するべきことだと思います。
個人的な感覚としては、「広義の日本人としての自分」を蓮舫さんが自覚して何か考えて行動していく時、この問題は今の予想ほどは深刻化しないのではないかと私は思っていますし、そのプロセスから日本社会および蓮舫さんが学ぶべき何かもまた、ある気がします。
ここまで書いた方向で唯一問題になってくるのが、おそらく蓮舫さんのツイッターに殺到しているだろう「マトモな批判としてくくれるレベルを大幅に超える人種差別発言の山」みたいなものなんですが・・・・まあ、これは「公人」てそういうものだというか、安倍氏のアカウントにも同じぐらい色んな悪口雑言が届いていると思うので(笑)、そこはなんとかスルーしていただければと思ったりします。
余談ですが、「安倍への悪口」を言いまくってる場に出会うと「こんなに世界中から嫌われてる人っているんだ」という気持ちになりますがマクロに見ると結構支持率安定してたりしますよね。そんな感じで、蓮舫さんも「こんなに嫌われてる人っているんだ」ぐらいの場があることは名誉なことかもしれません。それだけの「脅威」を対立者は感じてるってことですからね。
さて、次から本題です。既に一回分のブログとしては充分すぎる量になってしまったので、項を改めてまた明日掲載したいと思います。
それではまた、次の記事でお会いしましょう。多分遅くとも明後日までにはこの記事の続きは掲載できると思いますが、できればツイッターをフォローいただくか、ブログのトップページを時々チェックしていただければと思います。「こいつ面白いこと言うやん」と思われたあなたは、私のウェブサイトから活動紹介や著作群などへとどうぞ。
倉本圭造
経済思想家・経営コンサルタント
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