子供は日本と海外の大学でどちらに行かせたほうがいいのか

藤沢 数希

日本の大学のランキングが落ちている。先日、発表されたイギリスの教育専門誌”Times Higher Education“では、日本で圧倒的なブランドを誇る東京大学は39位で、アジアの中ではシンガポール国立大学(24位)、中国の北京大学(29位)、精華大学(35位)に次ぐ4位になっている。ちなみに、京都大学は88位で、トップ200に入ったのは日本からはこの2校のみだ。人口700万人の香港の大学は5校も入っている。

●世界大学ランキング 東大39位、シンガポール・中国勢躍進 日本は地盤沈下
http://bylines.news.yahoo.co.jp/kimuramasato/20160922-00062431/

こうしたランキングは、欧米の教育メディアがいくつかの指標を使って勝手に順位を付けているだけであり、そもそも重要視するべきものではない、という意見もある。しかし、複数の大学からオファーをもらった留学生が参考にすることもあり、実際、各国の大学はかなり気にしている、というのも事実だ。また、安倍内閣は日本再興戦略に「今後10年間で世界大学ランキングトップ100位以内に日本から10校以上を入れる」と述べており、日本の大学に関する数値目標では、これがほぼ唯一のものになっている。ランキング付けでは、教育の質や国際性などの定性的評価も指標になっているが、大きなウエイトを占めるのが論文の数と、それらの論文の被引用数という定量的な指標である。日本は、これらのアウトプットが減っているのだ。

もともと日本の大学は、こうした英語圏のメディアが作るランキングで強かったわけではない。理由はふたつある。

第一に、論文のカウントは、当然だが、データベースに収録されている英語のジャーナルしかカウントされないので、文系分野の日本語で書かれた論文は存在しないのと同じように扱われる。第二に、日本は伝統的に大学院教育を重視してこなかった。

国際化が遅れている日本の大学では、社会科学や人文科学など、学術論文を英語で書き世界に研究成果を発信している研究者は非常に少なく、文系分野はまるで存在感がない。それでも、過去には工学系が突出して強かったために、日本の大学のランキングも比較的高かった。日本の大学の知への貢献は、いわば理系だけの片肺飛行であると言っても過言ではない。それでも1990年代の前半までは、アジアの中で圧倒的な経済力を誇っていた工業立国であったため、日本の大学がアジアの大学に追い越されるというようなことはなかった。

たとえば、かつて、現民進党代表の蓮舫さんに「2位じゃダメなんですか?」と詰められて、国からの補助金をカットされそうになった日本のスーパーコンピュータであるが、日本経済が好調だった時代は、国から補助金などもらわなくても、NECがPC-9800シリーズで得た莫大な儲けのほんの一部を使って、片手間で儲からないスパコン分野の研究開発をしただけで、圧倒的な競争力を誇っていたのだ。アメリカのマサチューセッツ工科大学などの研究機関が、次々と日本からスパコンを買おうとするものだから、日米の外交問題にまで発展したほどだった。1990年には日本のGDPは中国のGDPの10倍近くあり、アジアの国すべてを足し合わせても、日本一国のGDPの足元にも及ばなかった。いまでは中国一国のGDPが日本の2倍以上になっている。

そして、この最も競争力が高かった工学分野でも、日本からの論文数はどんどん少なくなっているのだ。その直接の理由は、大学への交付金が年々少なくなっているためだと言われており、大学関係者は、このことを強く批判している。しかし、日本は少子化で学生数が減少していく傾向であり、また、積極的に留学生を増やすという政策もない。経済も右肩下がりなので、大学に投入する税金が減るのは仕方がないことである。

工学系論文数の低下

出所:運営費交付金削減による国立大学への影響・評価に関する研究(ある医療系大学長のつぼやき)

また、日本は大学院の教育を軽んじてきた。日本は良くも悪くも官僚機構が政治の中枢にある国で、こうした政策決定に関わっているのは、東大法学部を卒業し、国家公務員試験で高得点を叩き出した官僚たちである。彼らは学士であり、修士も博士も持っていない。日本はこの意味で、非常に低学歴社会なのである。たとえば、日銀の総裁も副総裁も博士号を持っていないが、先進国の中央銀行で、日本だけが唯一、経済学のPhDを持っていない人たちが政策運営をしている。

もちろん、これは一概に悪いことではない。欧米では大学院が専門教育や職業訓練の機能を担ってきたが、日本では、企業や官庁のオン・ザ・ジョブ・トレーニングを通して、こうした高等教育の一部の機能を分担してきたのだ。学士のみで、専門的な職業に就くことができるというのは、ある意味で、欧米よりも開かれたシステムとも言える。理系でもそれは同じで、たとえば青色発光ダイオードを開発してノーベル物理学賞を受賞した中村修二さんなどは、博士など持たず、四国の田舎の中小企業で研究していたのだ。

この10年余りで、日本の大学を追い抜いていったアジアの大学は、大学院を重視する欧米のシステムをコピーをしており、政府から多額の資金を与えられ、世界中から優秀な研究者をスカウトしてきた。日本では、世界的な研究者も、まったく論文を書いていない大学教官も同じ給料である。そして、定年が来ると世界的な研究者も等しく大学を辞めないといけないので、定年を迎えた日本のスター研究者の何人かが、シンガポール国立大学などに移籍した。このように世界から集められた優秀な研究者が、アジア中から集まってくるハングリーな大学院生たちとともに猛烈な勢いで論文を生産しているのだ。

今後、日本で大学院重視に変わるかと言ったら、その可能性は非常に低いだろう。というのも、前述のように、政策決定に関わっている人たちは、東大法学部卒のキャリア官僚が中心となっており、自分たちより高い学位を持つ人材を育成するために、税金を投入しようというインセンティブはまるでない。彼らは、大学入試改革など、世界の中で成功している日本の初等中等教育の制度をすこしだけ弄るというようなことに興味があり、世界の中で競争力を失っている日本の高等教育を改善するということについては、あまり関心を示していない。

日本のように大学院の学位を重視せず、企業や官庁が、オン・ザ・ジョブ・トレーニングで欧米の大学院が行っているような教育を担うという日本型システムの利点と欠点を論じるのは、この簡単なブログ記事では手に余る内容なので、別の機会に譲るとしよう。

いずれにしても、今後も日本が大学院重視の欧米型のシステムに移行することはないということだ。また、アジアの大学のように、世界から優秀な研究者をスカウトしてくる、というようなこともない。なぜならば、日本は年功序列と終身雇用が組織運営の根幹であるからだ。外から優秀な研究者をどんどんスカウトしてくる、ということは成果の出せない大学の教官をクビにする、ということとほぼ同義であり、日本ではそれは不可能である。世界中の研究機関から高額なオファーが殺到したという中村修二氏は、日本の大学からはまったく声がかからなかった、とぼやいていた。

今後もアジアでの日本の相対的な経済力は低下し続ける。日本は、人口減少社会であり、移民政策や大学レベルでは留学生招致にも積極的ではないため、大学の規模は小さくなり続ける。さらに、硬直した労働慣行から、今後の成長を見込める重要な分野の研究者を世界から連れてくる、ということもできない。これらの理由から、今後も日本の大学や研究機関のプレゼンスが低下し続けるのは、必定のように思える。

しかし、政策担当者でもない我々が、そのようなことを考えても仕方がないことである。多くの読者にとって関心があるのは、子供の教育であろう。今後も、日本のなるべくいい大学に進学させよう、という多くの家庭が採用している教育方針で、本当に大丈夫なのだろうか?

今週のメルマガでは、海外の大学への進学について論じることにする。
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編集部より:この記事は、藤沢数希氏のブログ「金融日記」 2016年9月28日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、「金融日記」をご覧ください。