ソ連の亡命ピアニストの告白

ヴァレリー・アファナシエフ
講談社
2016-09-15

楽論を通じ痛烈な批判

ベートーベン、シューベルトなどの演奏で国際的に名高く、魂の音楽家といわれるV.アファナシエフが「ピアニストは語る」(講談社現代新書)を出版しました。40年前のソ連から亡命して自由を得て、演奏活動の花が開きました。読んでみますと、全体の3分の1が亡命の動機、亡命の行動計画、実施に割かれています。今、なぜ。そこに出版の大きな狙いが置かれているような印象を受けました。

この著書は対話形式で書かれて分かりやすく、聞き手は旧知の日本人の音楽評論家で、東京・目白台の日本邸宅で対談が行われました。つまり日本発の著書です。ヨーロッパに亡命した同時代の音楽家は少なくなく、40年前の話とはいえ、抑圧や監視、取り締まりが過酷だったソ連に対する時代証言になっています。

この出版企画はアファナシェフ自身が日本側に持ち込んだそうです。この音楽家は政治亡命ではないし、著書ではソ連に対する政治的批判も全くしていません。それがかえって痛烈なソ連批判につながっていると、思われます。プーチン大統領のもとでウクライナ、中東で展開している武力行動をアファナシエフはどうみているのか。そのことに言及はしてはいないものの、心の底では今のロシアを悲しんでいるに違いありません。

内なる耳で音楽を聞く

このピアニストのスタイルは「内なる耳で音楽を聞く。最初の音で静寂を破る。しかも静寂を壊さない」にあると、されます。演奏会では、アンコールは受けない主義だそうです。本人は「何曲もアンコールを弾けば、演奏したばかりのベートーベンやシューベルトのソナタのイメージが壊されてしまう」といった具合です。

モスクワの音楽院で学んでいるころに、亡命を決意したといいます。ブリュッセルで開かれたエリザベート王妃国際音楽コンクールで優勝し、名ピアニストとしての人生を歩み始めます。ブリュッセルでみた西での生活がどんなものかを知り、どうやって国を逃げだすかを考えるようになりました。

そのころのソ連といえば、「何もかも馬鹿げていた。新聞を開き、テレビつければ、労働者の勝利、勝利、勝利のみ」。さらに「新鮮な肉など問題外。冷凍肉ばかりだった」。また「ピアノの恩師と会話をするのに、電話のコンセントを引き抜いた。隠しマイクが電話機に仕込まれているかもしれなかったからね」。

自宅に密告の電話

「父親と政治の話をするときは、森の中か、家の中なら浴室でバスタブの栓を抜き、水を流しながらだった」。「なぜ一生をこの国で過ごさなければならないのか」という思いが募りました。そんな頃、自宅に匿名の電話がかかり、どこで情報を入手したのか、「お前の息子は国外脱出を望んでいるぞ」と、母親に密告したそうです。当時のソ連は密告社会でした。

二度目のブリュッセル訪問の際、つまり40年余前、支援してくれる人がいて、亡命に成功します。それ以来、6年間、ブリュッセルで過ごし、フランスのパリにも移住し、またブリュッセルに戻り、今はここで生活しています。

西側の商業主義も批判

では西側を礼賛しているかというと、そうではありません。「ソ連を批判してほしいという申し出が何度もあり、全て断った」というのです。「新聞が亡命音楽家と書き立てれば、コンサートやレコード会社との契約を得られるから、そうした音楽家もいました。マーケット(音楽市場)に乗っていないと、この世界で存在しないのと同じ、という人もいた。それは自分の生き方ではない。マーケットに乗っていなくても、現に、自分は存在している」。

痛烈です。市場原理が主軸である自由主義の時代、世界になり、われわれも耳を傾けなければならない言葉ですね。


編集部より:このブログは「新聞記者OBが書くニュース物語 中村仁のブログ」2016年9月29日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、中村氏のブログをご覧ください。