著者は、国際標準でいうリベラル派のもっとも優れた部分を受け継いだ人だと思う。それは日本で一般に政治・党派的に言われる「リベラル派」とはまったく違う。
『集団的自衛権の思想史ーー憲法九条と日米安保』は、グローバル標準のリベラル派が、日本ローカルの、擬似封建制的・身分秩序的な(これは池内の形容句で、著者のものではありません)「リベラル派」の論理を、思想史によって脱構築し相対化し、結果として戦後日本思想史の秘部・恥部に光をあてることになっている。
日本の場合は、「リベラル派」が元来のリベラリズムの対極と見える権威主義と結びついているところが、欧米から見てわかりにくいところである。
しかもそれがアカデミアの学識の卓越性から発生する自律的な権威であるというよりは、公務員試験や司法試験、あるいは予備校の算定する偏差値への素朴な民間信仰によって支えられた「官」「お上」の権威と権力につながっているところから発生する権威主義であるところが、どうにも救いがない。
主権論の原理論に始まり、実践的な平和構築への理論的基礎など、思想史と国際政治学を自由に往還し、欧米文脈を徹底的に内在化し自在に操ってきた著者が、出来ればあまり扱いたくないであろう日本のローカルな思想とその支配構造を内側から描いてくれた。
グローバル化の波が日本に及ぶことで、この権威主義は揺らいでいる。この本自体が、日本の知的社会へのグローバル化の影響が及んだひとつの事例と言えるかもしれない。
ただしこのローカル・ヒエラルキーに必死にしがみつき身近なささやかなところで権力を行使し続けていこうとしてそれが可能であり続ける業界はあり、それは端的には大学の文系であったりもする。それが大学の文系の将来を暗いものにしているのだが、当事者はなかなか気づかないし、気づこうとしない。本人たちはそれで心地いいし、他に行くところがないから。
端正で高踏的な文章を書く著者が、このエッセーではここまではっきりと言ってしまっている。
多くの著名な憲法学者たちが、安保法制が違憲であることを主張する運動を繰り広げた。彼らは本当に正しかったのだろうか。なぜ彼らは感情的になって「反知性主義」の総理大臣や国際政治学者を糾弾し、勢い余って、内閣法制局官僚群を素晴らしい知性の殿堂であるかのように語るなどということまでしてしまったのだろうか。
検証が必要である。なぜなら憲法学者は、日本社会において絶大なる権力を持っているからだ。公務員試験、司法試験、学校教科書類に至るまで、巨大な官僚機構を基盤にした前例主義や権威主義がはびこっている。
予備校講師たちが全国各地で、東大法学部憲法学者の無謬性を信じるように受験生たちを指導し続けている。「芦部信喜を知らない」と述べた私立大学出身の総理大臣を「反知性主義者」と呼び、東大法学部出身の官僚群を守るべき知性の殿堂であるかのように語るとき、憲法学者は自分たちの著作を基本書とする人々が中枢を占める社会を守ろうとしているわけである。
編集部より:この記事は、池内恵氏のFacebook投稿 2016年10月8日の記事を転載させていただきました。転載を快諾された池内氏に御礼申し上げます。