スロバキア初代大統領の「訃報」

スロバキア初代大統領のミハル・コバチ氏(Michal Kovac)が5日、心不全で亡くなった。86歳だった。コバチ氏は1993年から5年間、チェコスロバキア連邦解体直後の初代スロバキア大統領を務めた。当方にとって、東欧取材記者時代、忘れることができない政治家の一人だった。

▲当方とのインタビューに応じるコバチ大統領(1994年2月4日、スロバキア・ブラチスラバの大統領官邸内で)

▲当方とのインタビューに応じるコバチ大統領(1994年2月4日、スロバキア・ブラチスラバの大統領官邸内で)

当方は1994年2月4日、大統領就任1年目のコバチ大統領とブラチスラバの大統領官邸執務室で単独会見した。そこで連邦解体後1年の成果と課題、経済改革の行方、少数民族問題などについて質問したことを覚えている。

金融・財政の専門家であり、財務相を務めたこともあるコバチ大統領は連邦解体後1年目を振り返り、「独立国家として国連、欧州会議に正式加盟、欧州連合(EU)の貿易協定など、国際社会の一員として政治的には認知されたが、経済分野では連邦解体はさまざまな問題をももたらした。具体的には、インフラの不備、工業生産分野のインフラ不足、銀行システムの未整備などだ」と指摘し、「チェコと比較する時、わが国の経済はスタート時点から大きなハンデイーを負っていた」と正直認めていた。

コバチ氏はチェコスロバキア連邦解体直後の波乱時代に国家のかじ取りを担った政治家だった。それだけに、現在では考えられない試練もあった。特に、政治的同胞だったメチアル首相(当時)との路線対立から、同首相から袂を分かったことで大きな試練を受ける結果となったことは歪めない。
「民主スロバキア運動」(HZDS)を率いるウラジミール・メチアル首相は当時、欧州では危険な民族主義的政治家と受け取られていた。メチアル首相と対立したコバチ氏は同党から除名され、大統領府の権限も縮小させられ、その政治的影響力は削減されていった。

当方は連邦解体後、コバチ大統領、その後日、メチアル首相の2人の政治家と会見したが、メチアル首相のアクの強さに対してコバチ氏は余りに穏やかな政治家という印象が強かった。それが波乱時代を乗り越えて行くには“押しのなさ”となって現れたのかもしれない。大統領の貴重な任期年間を政敵となったメチアル氏との抗争に費やさざるを得なかったことは、コバチ氏にとって不運だったろう。

コバチ大統領は対日関係についても以下のように述べている。
「両国関係は良好だ。わが国の企業も国民も日本との関係をこれまで以上に深めていきたいと希望している。第2次世界大戦後の日本の経済発展はわが国にとっても大きな研究材料である。同時に、日本国民の努力に敬意を表したい。わが国は日本企業のノウハウだけではなく、日本の資本を必要としている。日本企業は今後、積極的にわが国の市場に投資していただきたい」
ちなみに、在スロバキアの日本大使館の調べでは、今年9月現在で自動車関連、電機関連産業等の製造業16社を含む51社がスロバキア市場に進出している。

コバチ氏は1998年、大統領の任期を終えると、その後は政界から離れた。政界に馴染みきれなかったのだろう。スロバキアは2004年3月、北大西洋条約機構(NATO)に、同年5月にEUにそれぞれ加盟し、09年にはユーロを導入している。同氏の冥福を祈る。

最後に、当方の回想を付け足したい。

冷戦時代、スロバキアの首都ブラチスラバで開催されたキリスト信者たちの信仰の自由のデモ集会を取材中、治安警察に拘束され、ブラチスラバ中央警察署で7時間ほど尋問されたことがある。尋問では、どのようにしてキリスト者のデモ集会の開催を知ったか、に質問が集中した。反体制派グループのデモ集会の情報提供者探しだ。
それから6年後、当方はスロバキア大統領官邸でコバチ氏と会見したわけだ。もちろん、コバチ大統領は当方のささやかな体験など知らなかったはずだ。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2016年10月9日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。