思えば、暴言というか、乱暴なセリフにまみれた人生を送っている。メタルやプロレスが大好きなので「てめえらの心、ぶっ壊してやるぜ」「お前らのケツを蹴り上げるぜ」「お前、平田だろ」などなど、数々の暴言のようなMCの洗礼を受け、生きてきた。中学生の頃に、「朝まで生テレビ!」が始まったのだが、デリケートなテーマについて大人たちが怒鳴り合っている様子に興奮した。要するに幼い頃から、過激な言葉を腹いっぱい見聞きしつつ生きてきた。
私は常に何かに怒っている人材なのだけど、とはいえ、温厚な方だと思う。甘いと言われるレベルで。ネット上で暴言を吐いているつもりはないのだけど、怖い人、過激なことをいう人イメージもあるようで。よく初めて会う人に「怖い人だと思っていました」なんて言われる。実際、会わないと分からないのだけど、人生は短くてすべての人とは会えないし、会う必然性もないので。というわけで、人はイメージとの誤解のもと生きている。
久々に会った先輩から「ネットで暴言を吐くことの”メリット”は何だろう?」という質問をふっかけられた。彼は私をそういうキャラだと認定しているのだろう。忠告、アドバイスの意味もあるのだと思う。いや、そんなに暴言を吐いてはいないと思うのだけど。ただ、暴言なのかどうかは読み手がどう判断するかにもよる。これをキッカケに、自分ごととして、そして世の一般論として、いろいろ考えた。
暴言といっても、種類、レベルは多様だ。ヘイトスピーチなど人権を侵害するものは論外である。最近の事例でいうと長谷川豊的な「主張を伝えるための暴言」というものもあるのだろうが、とはいえこれもそこに走る前に今一度、そこに走る前に立ち止まって考えるべきだろう。たいていデメリットの方が大きい。少なくとも長谷川豊はもろもろ筋が悪かったと思うし、そもそもの主張も?だった。
もっとも、抑圧された者、差別された者、格差に苦しんでいる者による怒りの暴言というのは、耳を傾けるべきものではあるような気もする。ただし、暴言を言わずに主張を届ける方法をもう一歩模索したい。ヒップホップ的なウイットに富んだ暴言というのも成立するような気もするが、そこには信頼関係も必要だし、その瞬間、暴言は暴言ではなくなる。
「ネットで暴言を吐くことの”メリット”」というものが分からなくなってきた。やはり、メリットはない、少ないということなのだろう。中川淳一郎からは、暴言のメリットはないものの、あえて言うなら会った時のイメージが上がるくらいだという意見をもらったが。
以前、ネットで過激なことを言っていた人が、おとなしくなる現象を何度も見てきた。大人になったからだという話で片付けられそうな気もするが、それだけだろうか。そこにメリットがないことに気づき始めているのかもしれない。暴言に限らず、ネット上で目立たなくなった人は、リアルな世界で幸せに生きていたりする。今の方がよっぽど儲かっていたりも。殺伐としたネット空間だなと感じる瞬間がよくあるが、みんながリアルな空間に閉じこもるというか、ネット離れすると、少しは快適になるのか。そんなことを考える週末の夜。坂本龍一を聴きながら。
編集部より:この記事は常見陽平氏のブログ「陽平ドットコム~試みの水平線~」2016年10月23日の記事を転載させていただきました。転載を快諾いただいた常見氏に心より感謝申し上げます。オリジナル原稿を読みたい方は、こちらをご覧ください。