アゴラへの投稿の回数が減ってどうしたんだろうと思っておられる方も多いかと思います。とくに「歴史に謎はない」はすっかりサボっていました。
蓮舫さん叩きに時間を使っているうちに他の執筆が遅れて、とくに、年内に刊行するはずの本の締め切りが集中。すこし締め切りを延ばしてもらったりしてたのですが、それでも限界有り。
そこで、10月に入って大車輪でようやく4冊仕上げました。そのうち11月発売が、『井伊直虎と謎の超名門「井伊家」』(講談社+a新書)です。そのあと、12月に3冊。タイトルは仮のものですが、『誤解だらけの京都の真実』 (イースト新書) 、『日本と世界が分かる最強の世界史』(扶桑新書)、そして、『蓮舫と二重国籍』(飛鳥新社)です。
『井伊直虎と謎の超名門「井伊家」』は、来年のNHK大河ドラマにちなんだものです。その内容は、また、紹介していきますが、今回は、世田谷区の主要部が実は彦根藩領だったというお話しです。
世田谷の豪徳寺に井伊直弼の墓があります。彦根藩主は、在国中に死んだ佐和山の麓の龍たん寺、江戸表でなら豪徳寺に葬られました。曹洞宗のお寺です。
ひこにゃんも実は、ここでのエピソードがもとになっています。二代藩主井伊直孝が鷹狩りの途中、雷が鳴るのでこのあたりのおおきな樹木のしたで雨宿りしていたのですが、豪徳寺の猫が自分を手招きしているような気がしたので、一歩、直孝公がそちらに近づいたところ、もといた樹木に雷が落ちて、危うく直孝公は難を逃れたということだったのです。ひこにゃんは、その猫に武田軍団から井伊家が引き継いだ、赤い甲冑を着せたものです。
この豪徳寺が井伊家の菩提寺になっていたのは、世田谷が栃木県の佐野と並んで彦根藩の関東における飛び地だったからです。
江戸時代の殿様は、領国から離れたところに飛び地をもっていることが多かったのです。事情は色々なのですが、佐野や世田谷の場合は、江戸屋敷の維持に役立てるためのボーナスなのです。
安土桃山時代や江戸時代にあって、領主は自分の領地から年貢をとり、労力奉仕や現物提供を求めました。彦根藩の場合には江戸屋敷に千人規模で、武士やその使用人がいました。殿様や奥方がお出かけになるとか、藩邸の修繕工事や幕府から命じられたお手伝いに人手がいるとか、お客様を迎えるとかいうときに人手が要ります。馬と馬丁がいるとか、わらじを編んでくれといったことが必要なこともあります。
そんなわけで、関東、とくに、江戸に領地が近いところに領地があるのはとても便利なのです。
彦根藩の領地は、荏原郡のうち世田谷、世田谷枝郷新町、弦巻、用賀。小山、野良田、下野毛、上野毛、瀬田、八幡山、太子堂、馬引沢。それに多摩郡(北多摩郡)の岡本、鎌田、大蔵、横根、宇奈根、岩戸、緒方、和泉でした。大ざっぱには、世田谷区南部の大部分ということになります。
代官を務めたのは、地元の豪農で現在の世田谷区役所の近くに屋敷を構えていた大場家です。ただし、かつて世田谷区長をつとめた大場啓二さんという人がいましたが、これは、山形県出身で関係ないと「朝まで生テレビ」に一緒に出演したとき本人から聞きました。
なお、彦根藩の藩邸ですが、上屋敷が国会前の憲政記念館、中屋敷が紀尾井町(「井」は井伊の頭文字)、下屋敷は現在の明治神宮でした。