議論呼ぶ「中絶」に関する法王書簡

ローマ法王フランシスコは21日、法王書簡「Misericordia et misera」を公表し、中絶した女性が悔い改めるならば罪が許される道を明らかにした。その際は、教区司教の前に懺悔する必要はなく、通常の神父の前に懺悔をすれば許される。
同法王は昨年9月1日、今月20日に終わった特別聖年(2015年12月8日~16年11月20日)の期間、全ての神父に中絶者への許しの権限を与えると発表したが、今回の法王書簡はそれを今後も継続することを明らかにしたものだ。

ローマ法王の書簡が公表されると、信者たちの間ばかりか、聖職者の中でもさまざまな議論が出てきた。バチカン放送によれば、バチカン法王庁「新福音化推進評議会」の議長サルバトーレ・フィジケッラ大司教は21日、ジャーナリストの質問に答え、「ローマ法王の決定は罪から即免除されることを意味するものではない。回心と神の慈愛が同時に関わった場合だ」と戒めている。そして法王の書簡を引用しながら、「中絶は命を殺すもので罪だが、本人が悔い改めの心を持つならば、神の慈愛によって洗い落とすことができない罪はない」と説明している。

ドイツのアウグスブルクのアントン・ロージンガ―司教補佐はバチカン放送とのインタビューの中で、「中絶問題に関わらなかった神父はいないだろう。ドイツだけでも中絶者数は年間10万人だが、実質はその倍の約20万件の中絶が年間行われていると予想される。その意味で、ローマ法王の今回の決定は全ての聖職者にとっても密接な問題だ。法王は中絶は大きな罪だが、神の慈愛のもと関係者が罪意識にとらわれず、将来についてポジティブな生き方ができるように配慮したものだ。中絶した女性が長い間、心の中で葛藤している。その意味で、悩む心に対し神との和解の道を開く今回の決定は評価できる」と述べている。

一方、バチカン法王庁内赦院内赦執行官だったジャンフランコ・ジロッティ師は22日、イタリア日刊紙「ラ・レプッブリカ」とのインタビューの中で、「罪の最小化、放縦の危険性がある。教会は全ての問題に対し開放的に対応することは分かる。フランシスコ法王は神の慈愛を示したかったのは理解できるが、その結果、どのような状況が生まれるかを考えなければならない。法王の決定を聞いて、妊娠した女性が安易に中絶する方向に流れる危険性がある。故ヨハネ・パウロ2世の時、中絶の免罪の権利が司教に委ねられたが、その後、どのような反応が教会内で生じたかを思い出すべきだ」と指摘している。

フランシスコ法王の今回の決定を「価値観の安売り」といった批判も聞かれる。それに対し、イタリア司教会議のヌンツィオ・ガランティーノ 事務局長は23日、「そうではない。悩める人への慈愛の文化こそ願われているのだ。苦悩する人の随伴者、支援者、癒し者でなければならない。それが悔い改めの道を開くことになる。フランシスコ法王は日々の生活の中で慈愛を実践すべきだと願っている」と述べている。

教会は過去、中絶を殺人罪と見なし、厳格に対応してきた。暴行を受けた後、妊娠した女性に対しても中絶を認めなかったこともあって、教会の非現実的な対応に非難が絶えなかった。また、中絶は女性の権利だというフェミニストの考えもある。教会では、中絶は女性だけの問題ではなく、関係した男性や医者の責任も看過すべきではないという立場を取っている。

教会法では、中絶した場合、破門されるが、多くの教会では、特定の贖罪神父を通じて免罪できるように対応してきた。今回の法王書簡の内容は、特定の贖罪神父でなくても通常の神父にその免罪の権限を与えるわけだ。ただし、ドイツ、スイス、オーストリア教会では久しく一般の贖罪神父が中絶問題で贖罪の聖職に従事している。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2016年11月25日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。