学期末を迎え、新聞学院(ジャーナリズム学部)では今後の教育方針を定める議論が盛んだ。会議もあるし、会食をすれば決まってその話題になる。中国では新聞やテレビといった伝統的メディアの凋落が顕著で、ネットでの言論空間が日本では想像のつかないほど広がっている。「党の舌と喉」となる記者の養成を使命とする従来の新聞学院は、大きな転機に迫られている。ジャーナリズムを専攻する学生が激減し、映像やデザイン、広告へとシフトしている。当座の就職市場を考えればやむを得ない現象だ。
だが一方、ネットニュースには流言飛語や詐欺情報が横行し、伝統的メディアが担っていたニュースの真実性審査や主題設定といった機能が麻痺している。人の不幸に同情し、善意の募金を呼びかけるニュースのアクセス数がたちまち何十万、何百万に広がる。だがあるとき突然、舞台裏の不正、不当な利益操作が明るみになってたちまち批判や攻撃の波に転じる。「ニュースの逆転(新聞反転)」は今や大きな社会問題の一つだ。
ではジャーナリズム教育はいかにあるべきか。文才を競えば文学部にかなわない。経済ニュースの取材は経済学部の学生に及ばない。環境保護を深く理解しようと思えば、理系の知識が不可欠となる。
「われわれの専門性はどこに求めればよいのか」
全国にある新聞学院の各教師が自問自答している。党による伝統的な宣伝工作が地盤沈下していることの裏返しでもある。市場に十分な根を持たなかったメディアは、市場のルールを根底から覆す激変になぎ倒され、混沌の中で新種の芽が野放図に根を伸ばしているのが現状だ。だが生き延びてきた根を完全に絶やしてしまってよいのか。それは新聞学院の存在意義にかかわる重大事だ。絶滅品種のように、一度絶えたものはもう戻らない。
「専門記者の教育は捨ててはならない」、「ネット社会に対応した新カリキュラムが必要だ」、「映像技術を充実させるべき」・・・意見は百出する。今年の始業式でスピーチをした卒業生が、「3年間で全単位を取得し、4年目は就職活動に専念すべき」と話して賛否を呼んだ。大学が就職に必要な技術を習得するだけの場と化している。これでは専門学校と変わらない。そんな反省が学生や教師の間で共有され始めている。
悲観論、危機感が飛び交う中で、私はいつも楽観論を繰り返し話す。
「記事を書くだけでなく、記事を読むことにも重点を置くべき時代に来ている。情報の海に飲み込まれ、人々が溺れかかっている。情報は増えたが、質は劣化し、人々の思考も奪われている。われわれはメディアを通じ外部環境を理解する。われわれと外界を薄膜で覆っているのがメディアである。人類が経験したことのないネット社会、ケータイ社会の中で、批判精神を維持し、独立した思考を貫くためには、いかにニュースをとらえ、メディアを把握するかが何よりも重要となる。メディアを把握することは社会を把握することであり、究極的には自分を、人生を把握することである。こうした人材の育成は急務であるはずだ。だからこそ新聞学院の存在意義はこれまでになく増している」
うなずいて聞いてくれるのは、教師よりも実は学生の方が多い。彼ら、彼女らの方がより切実なのだ。就職のためやむを得ないのはわかっている。でも受験競争に明け暮れた生き方に疑問を持つだけの精神は育ち始めている。その疑問を踏みつぶさず、どう伸ばしてあげればよいのか。専門性よりも普遍性こそが核心なのではないかと思う。念頭にあたっての所感である。
編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2017年1月1日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。