ヤバい!ガラパゴス立憲主義

篠田 英朗

細々と備忘録の代わりのように使い始めたこのブログですが、このたび「言論プラットフォーム:アゴラ」で転載していただけることになりました。驚くと同時に大変に光栄に感じております。もちろん内容が稚拙であったり不適切であったりする場合には、あえて転載されることはありません。私にとってもチャレンジです。

さてそういう経緯もあり、「アゴラ」掲載の記事をあらためて見てみました。ネット掲載記事は、自由で闊達な雰囲気があるのが、いいところですね。制限字数とかも緩やかですから、ありがたいのと同時に、自由な自己を律する姿勢がより強く求められるというところも、当然あるかと思います。

自己を律する姿勢、ということで気になるのが、「立憲主義」ですね。今年は日本国憲法施行70周年にあたります。池田信夫さんが新年の記事として「憲法の何を改正するのか」を「アゴラ」で掲載されています。そこで朝日新聞の元旦の社説についてふれておられます。主流メディアを批判的に論評する記事を自由に素早く出せるのは、ネット言論の最大の利点でしょう。池田さんの批判的論説は、実際の文章を見ていただくとして、 実際、私も最近の一部言論人・機関の「立憲主義」キャンペーンには、懸念を抱いています。

私は若い時に大佛次郎論壇賞を受賞したことがあり、もちろん選んでいただいたのは審査員の先生方であり、私を候補作として推してくださった方々なのですが、主催者は朝日新聞社ですから、お世話になったという素朴な気持ちがあります。とても親切な方や、真摯な方が、たくさん社内にいるのは知っています。ですから朝日新聞社全体を云々することは、私はあまりやりたくありません。しかし最近の「立憲主義」キャンペーンは、難しいです。拙著『集団的自衛権の思想史』を執筆することにしたのも、このまま偏った「立憲主義」が通説になってしまうと、言論どころか、研究活動さえ圧迫されてしまうという危機意識を持ったからでした。

池田さんも以前に指摘したように、頂点に達したのは、「国民は憲法を守る義務はない」という議論を、「立憲主義」と呼ぶ記事だったでしょう。

これはヤバいです。国民は憲法に縛られない(ただし憲法学者の基本書からは逸脱してはならない?)、それが立憲主義だ、と唱えるのが日本においてだけ通説になってしまったら、国際的議論に参加できない究極「ガラパゴス」で、ヤバすぎます。

政府が憲法に反して権力を濫用したらその政府を制限することを試みる、これは立憲主義的でしょう。しかしそのことを言うために、国民は憲法を超越している、それが立憲主義だ、と主張するというのは、自殺行為です。憲法を制定した人民が、自分たち自身にも制約を課す、なぜなら信じている根本価値規範があるから、そういう考え方が立憲主義のはずです。憲法制定権力さえ覆せない根本的価値規範=個人の尊厳を信じるからこそ、政府も制限するでしょうし、憲法制定者もまた自らを律しなければならないのです。それが「主義」としての立憲主義の神髄です。それが立憲主義の思想であるはずです。国民が絶対主権者だ、というのは、立憲主義でも何でもありません、ただの絶対主権主義(のせいぜい拡張版)です。

元旦の朝日新聞の社説は、「個人の尊重」を立憲主義の神髄と掲げている点で、昨年5月3日の根本論説主幹の記事よりも妥当なものになっています。総意の成果なのでしょうか、仕上がりは格段に上等だと思います。しかし、よく見てみると、非常に原理的な問題がまだひそんでいることがわかります。以下、朝日新聞の社説の引用です。

「中学の公民の教科書でも近年、この言葉を取り上げるのが普通のことになった。 公の権力を制限し、その乱用を防ぎ、国民の自由や基本的人権を守るという考え方――。教科書は、おおむねこのように立憲主義を説明する。」
「公権力は、人々の「私」の領域、思想や良心に踏み込んではならない・・・。」

ここで特徴的なのは、制限されるのが「公の権力」だけである点ではありません。「個人の尊重」で基本的人権として守られるのが、「人々の「私」の領域」と規定されてしまっていることは、大きな特徴です。ここに絶対国民主権主義=国民憲法超越主義の考え方と表裏一体の深刻な問題がひそんでいるわけです。これでは、いかに制限されようとも、「公」は権力者に独占されています。国民一人一人には「私」しか守られていません。国民は「私」の集合体で、そのようなものとしてただ「公」を独占している政府を「制限」するときだけ「公」に現れますが、それもほとんど「公」を独占している政府のわき役としてだけなのです。

政府を制限すること以外に、国民に「公」の役割はないのでしょうか?国民一人一人に守られているのは「私」の領域だけなのでしょうか?このような一方的な「公」と「私」の関係では、国民はチクチクと「制限」する行為に趣味のような楽しみを覚える以外には、「公」に幻滅して背を向けてしまう以外にすることがなくなってしまうのではないでしょうか?

このような「公」・「私」の概念は、日本国憲法典に書かれていません。朝日新聞というか、一部の有力で権威ある憲法学者の方々が、ご自身の思想的信念に基づいて憲法解釈にあたって導入している概念でしょう。解釈と言うものは、自由である限り、素晴らしいものです。しかし権威主義を乱用して一つの解釈を絶対的真理であるかのように語り始めるとき、危機が訪れます。まして憲法典に書かれていない概念を振りかざすのであれば、特にそうでしょう。

日本国憲法13条は、国民の権利に、「公共の福祉に反しない限り」、という留保を受けています。「公」が政府に独占されている限り、いかに「私」を振り回して政府を「制限」することを英雄視しようとも、最終的には「公」対「私」の分が悪い戦いの構図から逃れられません。非常に危険な思想であり、危険な憲法解釈だと言わざるを得ません。

国民も「公」を形成すべきです。国民も「公共の福祉」に貢献すべきです。「制限」する趣味だけに活動を限定するのではなく、「公共の福祉」の領域を豊かにするために、国民も活躍するべきです。

たとえばネット言論も、「公共の福祉」に著しく反していれば、制限されるべきでしょう。しかし「公共の福祉」を豊かにするネット言論は称賛されるべきです。どのようなメディアであれ、「公共の福祉」を豊かにする活動をしているという自負を持つ者が、矜持を感じるべきです。

公共の福祉に貢献しているかどうかではなく、政府を制限しているかどうかによって称賛されるべきだと考える思想は、立憲主義的ではないと思います。

国民は、憲法学の基本書ではなく、憲法典それ自体が表現している価値規範を信じて、生きていくべきだと思います。


編集部より:このブログは篠田英朗・東京外国語大学教授の公式ブログ『「平和構築」を専門にする国際政治学者』2017年1月5日の記事を転載させていただきました(タイトル改稿)。転載を快諾いただいた篠田氏に心より感謝いたします。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。