「京大らしさ」が重要になる世界が今後やってくる

この記事は、例えば京都大学と東京大学を比較しながら、それは単に「ランクが隣」というだけに終わらない「学風の違い」っていうのがあって、そこに着目すると、そこにいた4年+アルファは、物凄い「違い」を生み出していくし、そこに注目して進路を決めることで、受験生はもう少し「主体性」を持った人生観を持てるんじゃないかという記事の2回目です。
一回目から読みたい場合はこちらからどうぞ。

(2回目なんで今回のタイトルがちょっと夜郎自大っぽくてすいません。全部読んでいただけると”それぞれの活かしあい”的な趣旨が伝わるかと思います)

前回までで、たった数年いるだけで立ち居振る舞いの細部まで染み込むような「大学ごとの差」というのが、例えば京大と東大を比べるだけでかなり明確にあるんだという話をしました。

そして、その多くが在学中に「どういう存在が評価されるのか」という「ピア・プレッシャー」によって生まれるんだという具体的な例をあげた考察をしてみました。

今回は、その「ピア・プレッシャー」は、大学を出てからも一生ついてまわるんだという話から、より深い「それぞれらしさ」を活かしていく道を探ります。

そして、「過去10年」と「これから10年」では、評価される存在のタイプも変わってくるだろうという話もします。

さて。

前回述べたような「ピア・プレッシャー」の方向性は、在学中だけでなくてその後でも言えて・・・というのは、京大生が100人いたら、5人から10人ぐらいは定職不明みたいになってヘラヘラ生きてるヤツがいて当然だろう・・・みたいな共通了解があったりするんですよね。

100人のうち50人〜80人ぐらいは結果的に「東大生とあんまり変わらない」キャリアを生きてたりする。官僚もいればニューヨークで活躍する国際弁護士もいれば大企業勤めもベンチャー起業家も外資系コンサルタントや金融会社にいったヤツもそれなりにいる。

・・・んだけど、なんかそれとは別になんかヒッピー(しかも今の時代によくあるスティーブ・ジョブズ型に経済的成功も追い求めるタイプじゃあないような・・・)というか世捨て人そのものみたいになって、大げさに言うと「新しいオルタナティブな生き方」を模索してるような人がいても当然で、

「国家官僚になったりベンチャー起業家になるのも、行方不明寸前のヒッピーになるのも”同じレベル”の並列な人生の選択肢の一つ」

みたいなところはかなりある。そこまで行くと言い過ぎかもしれないし、本音ではそこまで思いきれない人も多いかもしれないが、「公式的に京大生ならそういう価値観であるべき」みたいな意地?のようなものはあると思う。

(このあたりのことは「日本においてインテリであることは、他の国でインテリであるよりもっと大変なことなんだ」という方向で苦々しく思っておられる方も多いと思うんですが、そういうあなたには今回のブログの「こぼれ話」として追加に熱いメッセージを用意したので一度お読みいただければと思います↓。
全ての愚かしさを丸呑みにする日本的知識人を目指して

で、一方東京の大学では・・・特に東大生は、「正しいルート」「ランキング上位のルート」と「そうでないルート」に関する自他共のコダワリはちょっと可哀想なほど一生ついてまわることが多いようです。特に「東大生なんだけどその後”あるべきランキング”から外れた人」の精神には、普段そう見せずにいる人でもふとした瞬間にたまに「ぎょっ」とするような鬱屈が顔を出したりすることがあります。

逆にそういう「ランキングに対する強迫観念とそこから外れた時の鬱屈」がないというのは、結果としてそういう「自由さ」を持て余してあんまり「世間的成功」ができなくなる可能性もなくはないんですが、その場合でも「まあまあ楽しく生きられる」のが、これは京大に限らずかもしれませんが、京都にある大学で4年間を過ごすと自然に身についてしまう「人生のモード」であるように思います。

さて、ちょっと「京大という特殊な例」について書いてみましたが、それぐらい「4年間をどこで過ごすか」っていうのは「単にランクを一個アゲたりサゲたりする」だけじゃない意味あるんだってことを、受験生とコミュニケーションしてみると、「このラインを諦めるかどうか」ではなく「主体的にどう選ぶか」という視点に変えることができていいんじゃないかと思います。

で、今の時代、ここで書いたような「京大風味」って、ここ10年ぐらいはあんまりうまく「成功しやすい」タイプではなかったところはあると思うんですよね。やっぱ東京の大学に行って、大学2年の時からいろんな企業でバイトしたりインターンしたりして・・・っていうタイプが「学生の勝ちパターン」扱いだった感じだし。

そういう視点で見ると京都にいるってことはハンデになるんですよ。勿論ね。

ただ、最近例えばDeNAがWELQというキュレーションサイトの不祥事で色々と問題になっていたようなことがあって、「単に目の前の課題を高速で最適化していくのに全力を尽くす」ような能力

・・・”だけ”で社会が埋め尽くされることの問題点

が今後クローズアップされてくるはずだと思います。

ここで私が言いたいのは、「京大生のあり方が人間の本道だ」とかいうことじゃないんですよ。「社会全体で見た時に、こういう要素もちゃんと還流するようにならないと、東大生らしさも慶応生らしさも”深い成果”には繋がらないぜ」というようなことなんですよね。

冒頭で書いた戦士と魔法使いと僧侶がいるパーティじゃないと・・・っていう話を思い出してください。

DeNAていう企業のあり方については、「凄くシンパシー」な人と「大嫌い」な人にかなり分断される時代だと思うんですが、しかし単に「嫌う」だけじゃあ社会は決して前に進まないんですよ。「DeNA的な要素も社会の中には必要な部品」だからです。

例えば、DeNAの野球チームは凄くうまく行ってると思います。「野球チームという日本社会の中で物凄く土着的継続性が強い土台」がある上に、DeNAという企業カラーが良いように噛み合ってガシガシと問題解決しまくることで、「古い考えの日本の会社のナアナアさ」を排除してフレッシュな風を入れつつ、WELQ問題のような間違った方向にも暴走していない。

橋下維新と「都構想」も、小池都知事とオリンピックや築地問題も、「橋下維新や小池都知事がキライ」な人は徹底的にキライでしょうけど、嫌ってるだけじゃ社会は決してそれを乗りこなすことはできない。それを乗りこなせないと、日本全体がこの世界の中でちゃんと適宜正しい位置取りをし続けることもできないから、「現場は強いがトップは無能」なバンザイ突撃を旧大戦中と同じように繰り返し続けることになる。

日本は進歩という事を軽んじ過ぎた 私的な潔癖や徳義に拘って、本当の進歩を忘れてきた。敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか?

DeNAも橋下維新にも小池都知事の改革にも、私も参加していた「マッキンゼー」という会社の先輩がたが関わってるんですが・・・・そして、必ずしも確かに彼らの「現状」が100%うまく行ってるとは言い難い現状ではありますが、しかしああいうあり方についてあなたがキライだからといって「単に否定」するだけじゃあ駄目な時代なんですよね。実際問題として、彼らの問題点を強く指摘して、彼らを完全に否定しようとしても、どうしてもより強く彼らの影響力は増していく世の流れは止められない。なぜなら、彼らの「良くない部分」は当然あるんだけど、「彼らが背負っている事情」は世界的な情勢に対する対応をなんとかしなくちゃいけないという切実な事情そのものでもあるからです。

だからこそ、横浜の野球チームで「たまたま今はうまく噛み合ってる」ように、「外資系だったりグローバリズムで標準的な経営判断のやり方だったり」と「日本の土着性の良い部分」が、「罵り合うのではなく良さを発揮しあえるようになるかどうか」が一番大事で。そしてそれは「欧米VSイスラム国」「トランプVS反トランプ」的な世界最先端の課題に何らかのオリジナルな解決法をゼロベースに模索するチャレンジとなるでしょう。

今のところ、うまく行ってる事例は多くないですが、「古い日本」だけじゃ駄目だよな・・・という雰囲気が浸透してくることで、「国粋主義かハゲタカ外資か」の二項対立を果てしなく煽りまくるのではなく、「適切な資本の論理の延長に、日本の良さを連結する技法」自体に習熟するしかない・・・という方向性は徐々に「まともなビジネスマンの共通了解」になりつつあると思います。

私は常々その「いかにも水と油な性質の違う両者の連携」を幕末の「薩長同盟」にたとえているんですが、全世界がトランプVS反トランプ的な二項対立的分断に落ち込む中で、「超高速で今まで止めてきたボタン、最初のとこかけちがってたんじゃね?今更どうしよう・・・」的な混乱にニッチもサッチもいかなくなっていく現状において、「今まで20年間どちらにも進めず世界の人から笑いものにされてきた日本人」のある性質が、「最初のボタンちゃんと正しくかけないと、後からどうしようもなくなるじゃん!」的な知恵だったのだということが示してやれると私は考えています。

そういう時代に、「足りないピース」として「京大っぽさ」をもうちょっとフィーチャーしていく必要性があるはず!!!!と私は我田引水っぽいけど思ってるんですよね。

だから、まあ行こうと思えば東大行けるけどなあ・・・というワカモノも含めて、「ちょっとあえて京大選んでみるか!」っていう「あえて京大組」が増えてくれたら面白いなぁと思っています。で、ぶっちゃけて言うなら行ってみてやっぱあんまり向いてないなこういうのって思ったら「8割の東大生と変わらないキャリア」をその後選ぶことだって意識すれば実は可能なのが京大のオイシイところでもありますしね。

もし読者のあなたの周辺に、今まさに受験生だったり将来的に受験生になる人がいたりしたら、この記事を読んでもらった上で「その人にあった人生とは?」を一緒に考える機会にしていただければと思います。

今の時代によくいわれる「ダイバシティ」とは違う意味の、「個人的にはコレこそが本当のダイバシティってやつだと思うんだけど」的な可能性の扉がそういう対話から開かれるはずです。

単に京大らしさという話からちょっとかなり膨らませて来ましたが・・・こういう「新しいトータルな経済像」というビジョンに興味がある方は、私の最初の著作「21世紀の薩長同盟を結べ」あるいは二作目の「日本がアメリカに勝つ方法」、上記二作はもう読んだ・・・という方は三作目「アメリカの時代の終焉に生まれ変わる日本」を読んでいただければと思います。

ちなみに今回の記事との関わりで言えば、出版社のこのサイトで「薩長同盟」本の最初の部分が試し読みできるのでどうぞ。

この本では、京大の農学部演習林である芦生の森の原生林の話をしています。

今の時代、自然界の生存競争と、市場経済の生存競争を同等なものとして捉える論法は凄く普及していますが、実際に「原生林の生存競争」が体感できるような人の手が入ってない「本当の自然」に行ってみると、むしろ「あふれるような多様性」で、ゴム長靴で踏んだ地面がズボッって膝まで入っちゃうような土壌があったりする。

やればやるほどギスギスしてスカスカになってくる経済レベルにおける「生存競争」さんと、やればやるほど豊かな土壌になる原生林の生存競争の違いは何なのかを考えると・・・・ちょっと単純化して言えば、この記事で書いてきたような「京大生のありよう」みたいなものが社会の中にちゃんと還流するかどうかであると、私は真剣に考えています。

以下の絵のように、今の時代、「石の下の湿ったところで地味に分解活動をやるのが向いてる微生物タイプの人」も、「日陰でゆっくり育って最終的に森全体の湿度を保つドームになる陰樹タイプ」の人も、ある種DeNAやリクルート社にいるような陽樹」タイプの人と同じパターンで無理やり頑張らせてるみたいになってるので、時代を画するような骨太の新しい方針も生まれないし、日本社会の本来の良さであった地道で安定感のある生活のあり方もどんどん破綻してってるんですよ。

(クリックで拡大します)
1章(右)

これが本来こうなる↓
1章(左)

ような「全体のパターン」を再生していかないと、我々は本来かけがえのない味方であるはずの他人と罵り合うための面白いツイートをいかに数多く投稿できるかレースみたいなことばかりに真剣になっているうちに螺旋状に徐々に衰退していくしかなくなります。

日陰で微生物のようにジットリ生きることが向いている人や、じっくり長い時間ジトジトと考えた上で大きな方向性を見出していくようなタイプの人間に、非常に限定された種類のキラキラ系にアメリカンな「デキるビジネスマンテイスト」を押し付けて、「なんでできないの?」って煽るのは、人間がそれぞれ持っている本来的な多様性に対する「侮辱」ですよね。

「それぞれの価値」が「全体的に噛み合う仕組み」をこそ我々は実現しなくちゃいけない。「俺はこうやって成功したのになんで俺みたいにできないの?」だけで世界を一色に染め上げるような志向性が「ダイバシティ」の旗印を掲げていたりする茶番はそろそろ終わりにしなくてはいけません。

「アメリカンな文脈でのダイバシティ」や「ポリティカリー・コレクト運動」の「目的」を批判しているわけではないんですよ。ここで書いたように、どんな小さな「古い仕組み」の中にも、「生きているそれぞれの人のどこまでも個別的な差異を吸い上げるための歴史的知恵」が幾層にも用意されてるんだってことなんですよね。

だから今は、「ポリティカリー・コレクト運動」の「副作用」で、「非常にアメリカンな文脈に親和的なコミュニケーション強者以外は活躍できないような空気作り」みたいなことをしてしまってるんですよ。

それによって「民衆が生きる上での本当の多様性」をガシガシに抑圧してしまっている。だから反発も生まれて途中で頓挫してしまったりもする。

逆に言えば、その「副作用」をちゃんと理解して、「現地現物のリアリティレベルでの多様性」がちゃんと吸い上げられるような仕組みづくりも配慮しながらやるなら、「ポリティカリー・コレクト運動の目的」自体に本当に反対したい人なんてほとんどいないはずです。

必要なのは、ゲイかストレートかとか、民族的バックグラウンドの違いとか、そういう「ラベル」だけが「多様性」じゃなくて、見かけ上「マジョリティ」に属するあらゆる「個人」も、本当は他の誰とも違う「多様性」を持っていて、それをどこまでもきめ細やかに吸い上げる仕組みを作っていかないといけないんだという視点からスタートすることです。

「アメリカ的文脈」のレベルでのダイバシティは強調するが、その「網の目」よりも細かいレベルでの差異はメチャクチャ抑圧してしまう・・・ような現状を超えて、「現地現物レベルのダイバシティ」を吸い上げられるようになれば、「アメリカレベルのダイバシティ」をわざわざ否定しにかかるような人たちはいなくなるでしょう。

そこからはじめなくては、どこまでも二項対立的罵り合いがエスカレートする現代の人類社会は戦争へまっしぐらです。平和のための薩長同盟を、はじめましょう。日々両者のハザマの中で悩みつつ生きているアナタこそが、現代の坂本龍馬なんですよ!!!

それではまた、次の記事でお会いしましょう。ブログ更新は不定期なのでツイッターをフォローいただくか、ブログのトップページを時々チェックしていただければと思います。

今回も、「ブログに書ききれなかった話」が「こぼれ話」として追加されています。さっきも書いたけど今回は非常に力作ですので、「日本に生きづらさを感じているインテリのあなた」にはぜひ読んでいただきたく思っています!

倉本圭造
経済思想家・経営コンサルタント
公式ウェブサイト
ツイッター