憲法のコアは第9条ではなく第1条である


JBpressの記事では明治以降の「天皇制」が古来の伝統ではないという歴史学の常識を書いたが、かりに伝統だったとしても現在の天皇制を維持する理由にはならない。立憲主義によれば、憲法は主権者たる国民がその幸福を最大化する制度だから、1000年続いた伝統でも悪い制度はやめるべきだ。

その意味では、天皇を廃止して共和制にすることも(論理的には)選択肢である。丸山眞男はそう考えていた。彼が1950年代に憲法問題研究会でテーマにしたのは、ガラパゴス憲法学者の騒いでいる第9条ではなく、象徴天皇制と国民主権を定めた第1条だった。彼は晩年にこう書いた。

敗戦後、半年も思い悩んだ挙句、私は天皇制が日本人の自由な人格形成――自分の良心に従って判断し行動し、その結果にたいして自ら責任を負う人間、つまり「甘え」に依存するのと反対の行動様式を持った人間類型の形成――にとって致命的な障害をなしている、という結論にようやく到達したのである。(「昭和天皇をめぐるきれぎれの回想」)

これは1946年の「超国家主義の論理と心理」についての記述だが、その論文では天皇の廃止は論じていない。彼が「天皇制の打倒」に言及するようになったのは、1988年の「自粛」騒動のあとである。

世の中では国家意識の欠如したガラパゴス左翼と「明治の国体」を復興しようとするアナクロ右翼が闘っているが、丸山は日本人のナショナル・アイデンティティの歪みを是正し、日本が国家として自立するためにどうすべきかを死ぬまで考えていた。その意味で彼は福沢諭吉と同じく、ナショナリストだったのだ。

いま世界の直面している問題は、丸山の理想化していた「リベラルな国際秩序」が崩壊する、ウェストファリア条約以来の変化である。もちろん「ウェストファリア秩序」なるものが本来の意味では一度も存在しなかったことは彼も承知の上だが、理論的には主権国家の世界連邦政府が実現する可能性はあった。

しかしトランプ大統領は、主権国家はナッシュ均衡ではないという事実を証明した。アメリカが「国益」を最大化するには、「世界の警察」から撤退して保護主義をとることが合理的である。彼らの守る「公益」は世界が等しく享受するので、アメリカ人が公共財を提供することは合理的ではない。

このようにアメリカが(事後的には)合理的に行動すると、北朝鮮や「イスラム国」の軍事的冒険のコストが下がる。この「時間非整合性」のパラドックスを阻止してきたのはリベラルな貴族の国際共同体だったが、トランプ大統領の破壊しているのは、まさにその共同体である。

リベラルな貴族が敗北し、世界がホッブズ的アナーキーに戻っていくとすれば、日米同盟も解消され、日本が本格的な(核武装を含む)再軍備を迫られる可能性もある。そのとき大事なのは第9条ではなく、日本の主権者は誰かという問題である。

「すべての国民が主権者である」という憲法第1条はその答にはならない。1億2000万人が主権をもつという規定は、誰も主権をもたないのと同じである。この状態におけるナッシュ均衡は、アナーキーしかない。それは伊藤博文が急いでつくった「万世一系の天皇が主権者である」というキリスト教の粗悪な代用品と似たようなものだ。

おそらく今後の世界に必要なのは、ナッシュ均衡(部分最適化)以外の解概念をさがすことだろう。それは理論的にはいくらでもあるが、世界の人々が合意する解が存在するかどうかは、ゲーム理論でも未解決の問題である。