本日、2月3日は中国の作家、老舎(1899-1966)の生誕118年記念である。「118」は中国人に好まれる数字だが、「人民の芸術家」と評された偉人の生誕記念にしては重苦しい空気が流れている。だからこそ振り返る意義がある。
昨年11月30日、北京で中国作家協会の全国代表大会があり、習近平総書記も席した。席上、同協会副主席でノーベル文学賞受賞者の莫言(モー・イエン)がこう語った。
「(習近平総書記は)優れた人物であり、多数の書を読み、非常に高い芸術鑑賞眼を持ち、専門家だ。習近平総書記はわれわれの読者で、われわれの友人で、当然、われわれの思想の先導者(思想的指引者)だ」
習近平氏は、毛沢東が文芸を政治の道具とした手法にならい、文化人を思想イデオロギー統制の重要な担い手と位置付けている。莫言は政治に迎合し、権力者にすり寄った。莫言は、検閲制度を空港の安全検査になぞらえて失笑を買った前例があるが、「思想の先導者」とまで公言するのは、明らかに文化人のデッドラインを超えている。真理を探究すべき立場にある者として、政治家の個人崇拝に手を貸す発言は、自己保身を図る役人にも劣ると言わざるを得ない。
重苦しい空気で老舎の生誕118年を迎える。
老舎は北京の町を愛し、庶民の生活に温かい目を向け続けた。そして偽りのない人間の真の姿を凝視した。抗日戦争時代は、中華全国文芸界抗敵協会の常務理事として「抗戦文芸」誌を刊行し、建国後は北京市政府から「人民の芸術家」との称号を得た。だが文化大革命を迎えると、一転して紅衛兵から「反革命」のレッテルを張られる。暴行、虐待、侮辱を受けた末、北京北郊の太平湖に入水自殺したとされる。人生最後の1日、朝から晩まで湖畔のベンチに腰掛け、毛沢東詩集を読んでいた姿が目撃されている。
作家仲間の巴金は1979年12月、こう語っている。
「老舎同志は、結局自殺したのか、他殺なのか、または、恨みを胸に入水したのか、迫害にあって亡くなられたのか、私には現在にいたってもはっきりしない。ただ一つ認めなければならないのは、彼の肉体は死んだが、壺は守られたのだ。彼は立派なものをこの世に残している」
「壺」とは何か。老舎は1965年、日本を訪問した際、井上靖ら日本の作家たちにこんな寓話を残している。
ある骨董好きが身を滅ぼし、物乞いになりながらも手放さなかった名器の壺がある。それに目を付けた金持ちがしつこく譲ってくれと言い寄ってきたが、男は拒み続けた。男が貧困の末に命を絶ったとき、金持ちはようやく自分のものになると思った。だが、男は亡くなる直前、壺をたたき割って壊していた。
老舎が亡くなる前年のことである。その場にいた日本人作家の中には、価値あるものはたとえ敵の手にわたっても後世に伝えるべきだと反論する者もいた。結局、老舎が何を言おうとしたのかは謎に包まれたままだった。4年後、自殺の報が外電で伝えられると、井上靖は『壺』という作品を発表し、「老舎は壷を砕いて死んだと思った」と書いた。
巴金が「壺は守られた」と言ったのは、肉体は消えても精神は残ったとの意である。老舎は決して、逃避した臆病者ではなかったことを言いたかったのだ。だから「壺」を壊す行為の意味には答えていない。北京では生誕118年のささやかな記念イベントが行われたが、依然、解かれることのない問いとして残されている。
太平湖の湖面には、毛沢東詩集が浮かんでいたという。老舎は壊さずに残していたのだ。老舎は、真理を伝えるべき言葉が、逆に人を縛り付け、狂わせる現実を目の当たりにした。自分の友だと信じて疑わなかった文字が、ブーメランのように戻ってきて自分を傷つける。何を伝えるかよりも、いかに伝えるかに腐心した老作家は、身の引きちぎられる思いを感じたに違いない。その証拠が目の前にある。それを携えて湖に身を投げた。
壺は割ってしまえば残らない。ものに執着するものは、見えているものにしか思いが及ばない。だが、作家の良心は、見えていないものに目を向ける。壊そうとしても壊れないものがある。それは人の精神を豊かにすると同時に、破壊する魔力も持った言葉だ。湖面に浮かんだ詩集こそ、作家の良心が残した最後の叫びである。権力者を安易に「思想の先導者」と崇める作家に、その良心はあるだろうか。
老舎はなぜ太平湖に行ったのか。長男の舒乙氏が、すでに地下鉄の機関区に変わった現場を歩いて回想し、老舎が母親に育てられた西直門大通りの観音庵に近いことに気付く。老舎は幼少時に父親を亡くし、農家出身の母親に育てられた。文字の読めない母親は女中や役所、学校の雑役婦をし、女手ひとつで一家を養った。老舎は息子に対し、「真の意味での教師、つまり私の性格を培ってくれたのは母親だ。彼女は文字こそ読めないが、私に生き方の教育をしてくれた」と話したことがある。そして舒乙氏は、老舎が太平湖に足を運んだ理由について一つの答えを出す。
「父は愛する母を探しに行ったのだ」と。
母語という。母親からじかに伝えられた言葉はきっと、愛に満ちた、優しい、そして力強い言葉だったに違いない。
編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2017年2月3日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。