ちょっと煽り気味なタイトルになってますが、これは「サッカーなんてツマンネエからアメフト見ようぜ」という記事では”なく”、「サッカーがもっと面白くなるヒントがアメフトにはあると思うので、年一回の祭典スーパーボウルを見てみるといいかも(そうすると最近徐々に人気低迷の危機の入り口ぐらいにいるかもしれない日本サッカーへのヒントが得られるかもしれないし、世界の今とか今後の経済の動向とかそういう話まで深く理解できるかも)」というような記事です。
アメフトはいわゆる「アメリカのガラパゴス文化」であって、そのアメリカ国内リーグの最高峰であるスーパーボウルはアメリカ以外ではそれほど注目度がないけどアメリカ内部では圧倒的な存在感があります。
世界最大のスポーツイベントは、サッカーワールドカップか?オリンピックか?チャンピオンズリーグか???という永遠に定まらない争いがあって、それらのビッグネームに対して「数字の選び方によっては」同等以上だと主張できるほどの巨大イベントがスーパーボウルなんですね。
で、紅白歌合戦を経年で見続けると「その年の日本という国の状態」が広く深く実感できてしまうように、最近それほど国民的行事でもなくなりつつある紅白とは違って、依然として本当にアメリカの大イベントであるスーパーボウルを見てみると、「その年のアメリカ」が広く深く実感できるし、その変化が世界とアメリカの今を理解するのにいいんじゃないか・・・と思って、ここ数年スーパーボウル前にはその紹介記事をアップしてるんですよ。
特に今年のアメリカは大揺れに揺れて大混乱の時代ですから、スーパーボウルから透けて見える新しい知見の意義も大きいはずです。
今年も日本時間の2月6日月曜朝(アメリカ時間の日曜夜)にあります。BSが入ればNHKで、関東地方なら日テレで、それ以外でも日テレG+というCSか、最近話題のネットストリーミング「DAZN」でも見れるそうです。再放送が何度かあるのでこの記事を月曜朝以降に読んだあなたも大丈夫!
ちょっと見てみようかな?と思ったあなたは、私のスーパーボウル紹介記事の過去二回分を読んでおくと初心者でも超安心です。
↑では、全くの初心者でもすぐに理解できるルールの全体的説明と、特にクオーターバックという主要ポジションの位置づけが変わってきている昨今のトレンドが、「グローバリズムの中のアメリカ」を理解するのに格好の指標になっているという話の入門編が読めます。
そして
昨年の記事
↑では、
上記の図(クリックで拡大します)のように、より深く「活躍するクオーターバックのキャラクターの変遷」を追った上で、「グローバリズムの中でアメリカ的中心が消えてしまうのか、それともアメリカ的中心を無理やりにでも維持しようとするムーブメントが押し勝つのか?」といった視点で読み解いてみる記事となっています。(グローバリズム的にどこまでも液状化していく世界への逆襲としてのトランプ政権がその後誕生してしまった今から見ると、より深く理解できる記事になっているかと思います)
上記記事は2つともかなり好評で、「今年はやらないんですか?」と言われることも多い記事ですので、とりあえず楽しんでいただければと思いますが、今年は「サッカーとの比較」において、このどこまでも液状化して中心がなくなっていくグローバリズム時代に、アメリカはどうなっていくのか?そして日本人が自分たちの価値をちゃんと提示していくにはどういうことを考えていけばいいのか?というような話を考えてみます。
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さて今回の本題なんですが、最近サッカーに対する興味が薄れつつある人って、多いんじゃないかという個人的な肌感覚があるんですよね。
新興国が経済成長すればその分だけ「分母」がどんどん増えていくヨーロッパの一流プロリーグはいいけれども、Jリーグの経営難は結構たいへんなクラブも多くあるらしいという話を聞きます。
もっと実感的な話で言っても、
・Jリーグ発足当時の90年代後半
・2002年の日韓ワールドカップ当時
・2006年のドイツワールドカップ時代
ぐらいと比較して、「サッカーファン」がちゃんと定着してきてその「ファンの内側」においてディープな情報共有は行われるようになったけれども、「特にサッカーファンでもないがワールドカップは日本代表を応援するよね」程度のファンの「サッカー情報に対する感度」は徐々に落ちてきている実感があります。
ウチの奥さんは野球好きのサッカー嫌い派なんですが、中田ヒデさんや遠藤さんみたいな「ドイツワールドカップ世代」の代表選手の名前はそれなりにわかるけど、最近の代表選手の名前はホンダさん以外ほとんどわからないそうです。
宇佐美?清武?大迫?原口?誰ソレ?の世界。カガワさん・・・あ、聞いたこと・・・あるかも?長友さん?あ、あのアモーレの人でしょ!?違ったっけ??
いやこれ↑全然バカにするために演出したんじゃなくて実際にこのレベルですからね。
言っておくけど私個人はまだまだサッカーに期待していて、特に宇佐美さんとか清武さんとかユース上がりの天才肌の選手がもっと世界的に活躍できる状況になっていけばいいなと思っているんですが、それでも「特にサッカー派でもない世の中の普通の人との情報ギャップ」は年々広がっている実感があります。
勿論、数字的にJリーグの市場規模はそれなりに伸びているんですよ。しかしこれは、ある意味で業界関係者の努力の成果そのものでそれには敬意を払うけれども、つまり「マネタイズがうまくなった」だけでサッカー自体の深い意味での日本社会へのリーチ力はむしろ弱まってるんじゃないか・・・という私の感じ、どう思います?
例えばこれを見るとサッカー代表戦の視聴率の数字は、同じ最終予選・同じぐらいの時間帯の試合で言うと結構一目瞭然に下がってきている。
なにより、さっき言った「サッカー選手誰かあげてよ」って聞いた時の「サッカーファンってほどでもないがワールドカップになったら応援するよね層」の印象がどんどん希薄になっていっているのは多くの人が共通して持っている実感ではないかと思います。
こういう「実感」って結構大事で、というのは経営コンサル的に言うと、「ある商品の売上がピークアウトするちょっと前ぐらいに”そこにあるリアルな熱狂”が減速してくる兆候がある」ことって多いんですね。売上の数字はまだ余勢をかってまだ少し伸びる余地がある・・・ぐらいの時期に、「伸び始める時期」には確かにあった「リアルな熱狂」が実は冷めてきている兆候がいくつかあって、それが徐々に「売上の伸びが止まってしまう遠因」となって時間差で効いてくる・・・というようなことがあるんですよ。
「普通よりも優秀な経営者」の人は「まだ直接的な売上数字に現れる前の”その減速の兆候”」に物凄く鋭敏で、他人が「あれ?これからまだ儲け時なのに?」というようなところでスパッと手仕舞いしたり業態転換したりして後々のダメージを避ける判断をする時にその真骨頂が見えるときがあります。
そしてこれは、先述した通り発展途上国の経済発展で「分母」が毎年ガンガン増殖している欧州サッカーでも実は同じことが進行中なんじゃないかという感じが私はしています。
ジダンが頭突きで退場して引退したころ・・・レアル・マドリーが「銀河系軍団」とか言ってた頃は、ベッカムにしろジダンにしろ「特にサッカーファンってほどでもない人も知ってるビッグネーム」はもっといたように思います。もっと前はサッカー自体の人気は比べようもなく小さかったのに、マラドーナだとかバッジオだとか「顔」となるような選手がいつの時代にもいた。
それに比べて、「メッシ&クリスティアーノ・ロナウド世代」を最後として、「サッカーファンの外側にまで波及できるスター」はどんどんいなくなってるんじゃないか?あれだけ圧倒的な強さで優勝した前回ワールドカップのドイツ代表について、サッカーファン以外で誰か名前を一人でもあげられるでしょうか?
「経営の数字」ではありえないほどのマクロ市場要因で底上げされていっているので目立ちませんが、欧州サッカーにおいても同じような問題は起きているんじゃないかと私は見ています。
その一方で、斜陽斜陽と言われる日本のプロ野球は、経営的にもJより健全な球団が多いだけでなく、なにより大谷翔平さんのような「次世代のスーパースター」みたいな存在が出てきたり、アメリカで堂々と活躍するピッチャーがまだまだ定期的に出てきたり・・・と、「サッカー界をめぐる実情」とは随分と違う感じがします。
「この違いは何なのか?」という点について考えてみることから、今後の日本サッカーだけでなく「今後の日本の経営のあり方」にまで至る知見を持ってみたいわけなんですよね。
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日本企業の駄目なところとして(あるいは強みの根源として)、「ジョブディスクリプション」がちゃんとできてない・・・ということが槍玉に上がることがあります。「ジョブディスクリプションがある・ない」というのは、個人を雇う時に何をやってもらってその職掌範囲がどこまででどういう責任を持ってもらうのかというのを明示的に言語化して契約する風習があるかないかという話ですね。
最近あるシンガポール在住の人事系コンサルティング会社の友人と話してて、「サッカーはジョブディスクリプションがないから、あまりに真剣にプレッシャーかけると個人が潰し合っちゃうんだよね」と私が言うと、物凄く意外そうな顔をして「ナルホド!!」って何回も言ってました。
サッカーに比べて野球は非常に「開明的で新しいスポーツ」であり「日本社会の古くて駄目なところ」から切れている・・・というような印象がある人が多いので少し「意外」な感じがしてしまうわけですが、競技特性を素直に観察すれば、「野球」というのは非常に「ジョブディスクリプションが明確」な競技であるのに対して、サッカーは「ジョブディスクリプション」がほとんどないといっていいような競技ですよね。
野球に限らずアメリカ発祥のスポーツは個人がちゃんと「その個人のための数字」で評価される設計になっていて、サッカーみたいに曖昧な部分ができるだけ排除されている(つまり、ゴールにも。そして、「打席」や「マウンド」にあがった時には、余計な雑音的な問題で「空気を読ませる」ような要素をできるだけ排除した上で、「純粋なその個人のパフォーマンス」に集中できるような構造になっているんですよね。
この「野球とサッカーの違い」から深掘りして日本の今後の社会運営や経営実務はどうあるべきか?っていうのを前回ワールドカップ時にブログに書いて、えらくバズって「フットブレイン」というテレビ東京の番組にまで呼んでいただいたことがあるんですが。
(だいたい以下の2つの記事で全貌がつかめるかと思います・・・)
サッカー派と野球派はなぜ仲が悪いのか?
上記過去記事でも書いたように、「ジョブディスクリプションが全然ない状態」だと、その社会の共通了解が強くある時はいいんですが、変化の激しい時代に色々と不確定な要素が絡んでくる状況になると、「個人が自分でありとあらゆる細部に気を使い続けなくてはいけなくなって疲弊する」んですよね。(これは”あまり良い状態でない日本の会社”で働いているアナタなら物凄く実感があると思いますが)
つまり、欧州サッカーも、今ほどショーアップされてグローバルに商業化される前の、極めて欧州・南米ローカルなスポーツだった時期には、地続きな「サッカーとはこういうもの」的な文化共有が明確にあったので、「ジョブディスクリプションがない」サッカーの特性が、むしろ「個性の自由な発揮」に繋がっていた幸福な関係があったんですよ。そういう時期には、むしろ個に対するジョブディスクリプションが明確でないこと自体が「自由度」に繋がりますからね。
しかしここ10年20年で圧倒的にグローバルな商業的存在感を増して、ケタが違うお金が関わるようになり、そしてサッカーのあらゆる要素をデータとして分析できるツールが普及してくるに従って、「あまりにジョブディスクリプションがないサッカーという競技特性」が、「個性のつぶしあい」の方向に働きつつあるんじゃないか・・・というのが私が感じていることです。
個人的な感触だけで言うと、やはりジダンが頭突きで退場して引退したあたりから、徐々にそういう「予感」はヒタヒタと満ちてきて、前回のワールドカップでドイツが圧勝したあたりでかなり「完成」してきた一つの流れがあるように感じています。
昔のサッカーはもっとユルかったので、サボってる時期はサボってる選手が、勝負時!って時に俄然凄い活躍をしたり、目の覚めるような局面を変えるパスを出したり・・・っていう可能性がもっとあったんではないかという感じがあるんですよね。
しかし今はガチガチに分析され、「短所是正」的に試合時間中ずっと常時全力で走り回らされる選手たちが必死に潰し合うことで、「自分たちのクリエイティビティの発揮ではなく相手の強みの発揮を速攻で潰すことに全力を尽くし合うような陰鬱な競技」になってしまい、結果として「選手が小粒化」してしまったというか、「サッカーファン以外にまで届くスター性」が徐々になくなってきているんではないかという・・・まあこれは私の「感触」にすぎないことですが。
あれだけショーアップされて「次世代のスター」を運命づけられたようなネイマールさんもどうも「伸び切らない」。日本でも、次々と「カズ→ヒデ→本田さん」の次を担うのは「この人だ!!」というような「次世代のスター」を期待される選手は散発的に出てくるのに、どうも伸び切らない。なんか欧州の知らないマイナークラブに移籍して、その後よっぽど情報を追いかけている人以外には音信不通になってしまったりする。
それに比べると、野球の方は大谷翔平さんを始めとして、「次世代のスター」がちゃんと出てきてる感じがしますよね。プロ野球にデビューする「スター」も連続して出て来るし、昨年のマエケンさんみたいにメジャーで活躍するスターも連続して途切れずに出てきている。
サッカーと似たようなフィールドスポーツでありながらジョブディスクリプションの塊のようなアメフト(NFL)の世界でも、やはりルーキーに近いような若いクォーターバックが大活躍してチームを決勝戦まで引っ張ってくる・・・ようなことが結構頻繁にあります。
クオーターバックだけでなく色んな地味な(初心者から見るとね)ポジションにおいて、「明らかに隔絶した数字」を残した選手はそれだけでちゃんとフレームアップされますから、その人が個人として非常に「スター性」を持った存在として周りが持ち上げていける環境が用意されている。
この違いは何なのか?が、この「ジョブディスクリプション」の違いじゃないか・・・と私は経営コンサルタントとして「組織を見る目」の延長でそういうふうに感じてるんですよね。
ちゃんと「個の範囲」が明確に定められていると、この世界がどこまでも不確実性を増していっても「その人がやるべきことの範囲」が崩れずにちゃんとあるので、若手選手がのびのびとチャレンジしのびのびとパフォーマンスをすることができる。結果として「新しいスター」がちゃんと出てきて、それをみんなで愛でることができる。
しかし、「個の範囲」が曖昧なまま、巨大資本が入って関わる人間の数が飛躍的に増えるだけでなく、重箱の隅までつつきまくれるような分析ツールが発達して細部の細部まで一挙手一投足が評価の対象になる・・・ような状況になっていくと、「若手の個」は「長所を伸ばす」ようにクリエイティブに才能を発揮していくというよりは、「あれもやってないの?これもやってないの?あんたサッカー舐めてるの?」みたいな圧力ばっかり高まっていって、全体的に競技が陰鬱なものになり、華々しいスター選手も生まれなくなってくるんじゃないかと・・・私は感じています。
なにより、
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「昔は共有了解がちゃんとあったからジョブディスクリプションが全然なくてもそのほうが自由でノビノビできたけど、変化の激しい時代にどんどん不確実性が増して来て共有了解が雲散霧消してきた時代にジョブディスクリプションなしの組織でやってると、とにかく果てしなくアレも考えろコレも考えろアレやってないの?コレやってないの?的な圧力に怯え続けることになっちゃう」
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これって、「あまり今は良い状態じゃない日本企業」にいる読者の人にとっては「あ、それどっかで聞いたことある状況かも?」って思うところあるんじゃないかと思うんですよね。
ということは、「サッカーという競技の今」が日本だけでなく全世界的に陥りつつあるように思われる問題を、「アメリカのスポーツの良さ」を参考にしながら超える方向性が見えてきたら、サッカーというイチ競技だけでなく日本社会全体における「組織運営のあり方」にまで新しいヒントが得られるかも???
と思いますよね?
そろそろアゴラの文字数限界が来ているので、アゴラではまた明日分割掲載します。
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それではまた、次の記事でお会いしましょう。ブログ更新は不定期なのでツイッターをフォローいただくか、ブログのトップページを時々チェックしていただければと思います。
今回も、「ブログに書ききれなかった話」をさらに別記事にしてあります(また今回も超力作です・・・話題の映画、遠藤周作&マーティン・スコセッシの沈黙・・の話から・・・ぜひご一読ください)。既に普通のブログとしちゃ結構長いですが、俺はまだ読めるぞ!という方は上記リンク先へどうぞ。
倉本圭造
経済思想家・経営コンサルタント
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