安岡正篤先生は御著書『日本精神の研究』の中で、「人間の真情(まごころ)も巫山戯(ふざけ)た心を一掃し去らねば本当にしみ出て来るものではない。大丈夫が世間の同情や憐(あわれ)みを潔しとせぬのは真情を愛するからである」と述べておられます。フリードリヒ・ニーチェも「同情を奴隷道徳として痛撃した」ようですが、私には此の同情が悪であるとは感じられず非常に大事な感情だと思っています。
例えば嘗て私は「今日の孟子(19)」として、『惻隠(そくいん)の心は仁(じん)の端(たん)なり。人の不幸をいたむ心は仁という大道の端所(たんしょ)だ。有名な「四端の説」の最初です』とツイートしたことがあります。「惻隠の情」とは、即ち「子供が井戸に落ちそうになっていれば、危ないと思わず手を差し延べたり助けに行こうとする」人として忍びずの気持ち・心であります。
あるいは「経済学の父」とも称されるアダム・スミスは『道徳感情論』で、「人間は他人の感情や行為に関心をもち、それに同感する能力をもつという仮説から出発してい」ます。様々な人の色々な気持ちを理解し自分の心に感じ、その気持ちを自分の心にする「共感(sympathy)」こそが人としての深さに通ずるものでしょう。
但し「あぁ可愛そうだ。何とかしてあげないといけない」というところで終わっている単なる憐みや同情、つまりはアクションに結び付かない思いであったら何ら意味はないかもしれません。同情を同情として終わりにするでなしに、上記「惻隠の情」の如く反射的にぱっと動くといったアクションに繋がって初めて、本当の「人間の真情」ということになるのでしょう。
現代も見られる「言うだけ番長(言葉ばかりで結果が伴わない人)」に該当するような、「巫山戯た心」で言いっ放しの評論家の類がブラウン管の向こう側で涙を流しながら語る中に、安岡先生は似非シンパシーというものを垣間見られたのではないでしょうか。「本当にしみ出て来る」同情や憐みは、そこにアクションを生んで行くのです。
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