「おちゃめな一面もあった」?
金正男が死亡したとのニュースは日本国内でも大きな話題になっている。事件にはもちろん驚いたが、さらに驚くのは、その中に「残念」「好きだったのに」「彼なら北朝鮮を変えてくれたかもしれないのに」といった親しみと期待のこもった嘆息が目立つことだ。ある種のネタとして言っているのかなと思ったが、どうやらそうでもなさそうだ。
特に問題なのはプロまでが彼との距離感を狂わされていたのではないかという疑いだ。
まずは朝日新聞。〈絵文字のメッセージ、酒席で日本の思い出 金正男氏を10年取材、記者が振り返る〉と題する峯村健司記者の署名記事。
「正男氏は、かわいらしい絵文字やスタンプも交えながら、私の健康や家族のことをいつも気遣ってくれた」
「話に夢中になって杯が空になると、先に日本酒をつぎ足してくれるのは、正男氏の方だった。接客する女性店員にも冗談を言ってからかう、おちゃめな一面もあった」
この記者は友人になるつもりで金正男に接触していたのだろうか。そんなわけはあるまい。親しくなって情報を得るという手法もあるのだろうし、ここまでの関係を構築できるのは記者として優秀なのだろう。だからこそどうしてそうなるの、と思うのだが、この文章は取材者と取材対象者という距離感をまったく感じさせない。リンク先で全文をお読みいただきたいが、文の結びは正直、「この人、何言ってんの?」というものだ(大事な情報源を失った、という感じではない)。
カネや女で取り込まれる例は古今東西、尽きないが、「酒を酌み交わし、絵文字のやり取りをする」だけで、こうまで相手に親近感を持ってしまうものなのか。これではもはや「運命に引き裂かれ、永遠に会えなくなった友への追悼文」だ。今後、各国の情報工作員は峯村記者に可愛いラインスタンプ付のメッセージを送るといいだろう。
「ディズニー好きの太っちょ兄さん」の虚像
もう一つは〈金正男は、自由を愛する人間だった〉と題する記事だ。『父・金正日と私 金正男独占告白』(文春文庫)の著者で東京新聞記者の五味洋治氏が本のまえがきに書いたものが文春オンラインに掲載された(単行本は刊行されてすぐ読んだが、文庫版は読んでいなかった)。
「ギャンブルはやっていないと私には言っていたが、どうやらたしなんでいるようだ。いや、かなりのめり込んでいるらしい。そんな、人の良さというか、弱さが隠せない。かなり自分に甘い人なのだ。人ごとながら、これでよく家庭を維持しているな、と思うほどだ。そんな彼の実像は、多くの人に親近感を与えた」
「北朝鮮といえば拉致問題をはじめ、ミサイル、核実験、強制収容所とネガティブな単語が次々に思い浮かぶ。暗い閉鎖社会というイメージが定着している。しかし、そこにも人が住み、明るい笑いがある。正男氏の存在は、そんな当たり前のことを想起させてくれたのではないだろうか」
彼が閉鎖社会の出身でありながら、海外に出かけ、ギャンブルに興じ、「あの国のプリンスでありながら開明的でディズニーランドにも行っちゃう」というギャップ萌えまで漂わせることができるのは、他でもない金一族体制あってのことだ。
彼が人好きのする温和な表情で朗らかに笑っていられるのは、多くの北朝鮮人民から吸い上げた財産あればこそで(張成沢が処刑されるまでは彼が正男に援助していたとされている)、人民のほとんどは彼のように明るく笑ってはいられない。
二人はプロの記者だから、金正男が世界中で何をしていたのかについて、取材によって把握していたのだろうか。こうは書いていても取材対象との一線は隔していたはずだ(と信じたい)。だが、文章を読む限りでは、「あの」北朝鮮の将軍の嫡男でありながら、自由社会を愛する俺たちと対等に国際社会について忌憚なく話ができるんだぜ、本来は話の通じる相手じゃないはずなのに――、というギャップが判断を鈍らせているようにも思える。
新橋のおでんより拉致問題を語れ
万が一、プロですら「俺たち分かり合えるかも」と思い込んだとしたら、一般世論が「正男かわいそう」になっても無理はない。ある種、強烈なプロパガンダ力を持っていたと言えるだろう(ゆえに殺害されたのかもしれないが)。
これらは「親近感」がいかに人の認識に作用しているかを物語る。
恐ろしく、許しがたい事実だが、同じ日本人といえど、接したことのない、動いている映像も見たことのない現在の拉致被害者に対する親近感は、多くの人にとって金正男に対するものより低いのかもしれない。「正男かわいそう。拉致被害者のことは知らない」、というわけだ。
「金正男か、金正恩か」という二択も、金正男に対する評価に下駄をはかせている。「彼だったら、(弟と違って)北朝鮮はずっとましな国になっていたのではないか」――。しかしそれは仮定であり、「こうなったらいいな」の願望に過ぎない。いいドラ息子と悪いドラ息子を比べているような感じだが、ドラ息子にかわりはない。
こんな場面すら想像する。男二人が結託して、一人が強引な不良として女性に近づき、もう一方がヒーローとしてこれを助ける。すると女性はヒーロー役の男に簡単についていく……。よもや金兄弟が結託しているわけはないが、人間はこういったケースに弱く、心理的に揺さぶられやすい。
特に金正男の場合、血縁や運命に翻弄されてきた(ように見える)ことが、人生に「悲劇性」を纏わせている。そこに諸行無常的感覚を覚え、つい哀れんでしまうのは日本人の常ではある。
筆者にも覚えがある。朴槿恵大統領が袋叩きにあっているのを見て「両親が殺される悲劇の人生を歩んできて、それでも政治家になろうと頑張ってきたのに、なんだかかわいそうですね」と述べると、それを聞いた韓国出身の女性はこういった。
「日本人は甘いですね。彼女はそれだけのことをしたのです」
確かにそうなのだ。金正男の最期は確かに悲劇だが、そのことで彼が本当は何をやってきたのか、ミサイル・核開発や日本の安全保障(つまり我々の生活)に影響を及ぼしてはいなかったのか、中国との密な関係の実体はどうだったのか、などが覆い隠されてはならない。正男が新橋のおでんが好きだという情報もいいが、拉致問題やミサイル開発について何を知っていたのかを知りたい。
相手の金正男が日本人記者をどう思っていたかはもはや永遠に不明だが、友と錯覚するほどの信頼関係を構築した結果、記者二人はどんな情報を金正男から引き出したのか。「取材もしないクセに偉そうに言うな」との反論には「偉そうですみません」と言うしかないが、取材した結果、得たものが「金正男は結構いいヤツ」という錯覚ではまずいだろう。金正男の立場を重んじて公にせずに来た重要情報が今後明らかになることを期待している。
いずれにしろ各国の情報担当者は「簡単に世論操作できる。日本人はチョロいな」と笑っているに違いない。