中国の「外」ではなく「隣」にあった日本の存在意義

加藤 隆則

「日本」という国号が中国なしにはあり得なかったのと同様、今の中国も日本なしには存在しなかった。近代以降の活発な人的交流、反作用としての抗日戦争勝利、改革開放への経済援助だけではない。中国が「真ん中の国」であっても、「国の中の真ん中」であっても、周辺がなければ存在しない。その中にあって、唯一漢字を受け入れ、言葉の交流を続けてきた日本の意義は大きい。

冗談半分に言う言葉がある。「中華人民共和国のうち、『中華』以外は日本人がつくったものだ」。近代以降、西洋概念の翻訳は日本が中国に先んじた。中国の古典に通じた日本の知識人が、漢字の原義を踏まえながら創意工夫の末、多くの西洋言語を翻訳し、漢字を共有する中国がそれを輸入した。中国にとっては、漢字の「逆輸入現象」だった。

実際、英語と中国語の翻訳は中国にわたった宣教師がまず取り組んだ。英語と中国語の辞書としては、モリソン『英華字典』(1822)、ロブシャイド『英華字典』(1866~69)、ウィリアムズ『英華字彙』(1844)が知られている。「people」の訳は「百姓」が圧倒的に多く、ロブシャイドにならった井上哲次郎編『訂増英華字典』(1844)でようやく「人民」が登場する。

「共和(republic)」制には、日中とも頭を痛めた。なにしろ君主をいただかない制度が想像つかない。日本では江戸末期の1845年、学者の箕作省吾が地理書『坤輿図識』で最初にオランダ語から「共和」と翻訳した。中国の西周時代に存在した「共和」を取り込んだものだ。もちろん王制下なので、現在使われているよう「民衆による政治」の意味ではなく、王室の腐敗に際し、二人の政治家が共同で政務をつかさどったことによる。

こうして生まれた「人民共和国」を、中国共産党は国名として採用したのである。日清・日露戦争での日本の勝利が引き金となって、日本への中国人留学生が殺到し、日本人が漢字に訳した和製漢語の「自由」「憲法」「社会主義」「資本主義」など約1000語がそのまま中国に逆輸入された。多くの西洋学術書は、日本語から中国語に翻訳された。

毛沢東は1942年、陝西省延安で行った演説「党八股に反対しよう」の中で、

「われわれは外国の言葉を無理に取り入れたり、乱用するのではなく、外国の言葉のなかのよいもの、われわれに適するものを吸収しなければならない。それは、中国語の語彙では足りないからである。現在、われわれの用語のなかには外国からたくさんのものが吸収されている。たとえば、今日開いている幹部大会の『幹部』という二字は、外国から学んだものである」

と語っている。「幹部」もまた和製漢語だ。抗日戦争中ではありながら、言葉の輸入についてこだわりのない態度を示したことは評価されてもよい。1949年10月1日、天安門広場で「中華人民共和国」の建国を宣言したのも毛沢東である。毛沢東は「外国」としか言っていないが、漢字を共有する日本以外はあり得ないことだった。

「外」と言うと、内外を分断し、自分以外の世界を示すだけにとどまる。だが「隣」と言い換えれば、境をはさんでかかわりあう関係になる。「日本」、「中国」の言葉の成り立ちからも、そんな関係を思い描くことができる。


編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2017年2月23日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。