50代の生き方

北尾 吉孝

森信三先生は「人間も五十をすぎてから、自分の余生の送り方について迷っているようでは、悲惨と言うてもまだ足りません。そこで一生を真に充実して生きる道は、結局今日という一日を、真に充実して生きる外ないでしょう。実際一日が一生の縮図です」と述べておられます。

また孔子は「四十五十にして聞こゆること無くんば、斯(こ)れ亦(また)畏るるに足らざるのみ。 … 四十歳、五十歳になっても、何一つ評判が立たないような人は、畏れるには足らないよ。それまでに人格を磨き、技能を高めるべく努力することが大切だ」(子罕第九の二十三)と言っています。

私自身は49歳の時、インターネットを活用した金融事業によって投資家主権あるいは消費者主権を確立し、金融サービスの顧客便益性を高め、社会に貢献することが自らの天命の一つではないかと思えるようになりました。当時もう一つの天命として自得したことは、事業を通じて得た利益を社会に還元すべく、公益財団法人SBI子ども希望財団やSBI大学院大学、社会福祉法人慈徳院を設立し、直接的な社会貢献をすることでした。

孔子ではありませんが、次世代を担う人物の育成こそが最大の社会貢献になると考えたのです。私は、49歳の時に知った(少なくとも知ったと思っている)天命を如何に果たして行くべきかということで、50代においてはその天命を常に強く意識し一心不乱に仕事に打ち込んできました。

50代の生き方というのは、天命を知った人、少なくとも知ったと考える人、全く知らない人、とでは大きく変わってくると思います。あの孔子ですら「五十にして天命を知る」(為政第二の四)のだから50代の自分が知らなくて当然だ、と思っていたらそれは大きな間違いです。真の天命とは違うかもしれないけれども、少なくとも知った気になる程度に達していなければ、結局自分の人生に禍根を残すことになるでしょう。

天命を知ることは、生まれてきた理由を知ることだと言っても過言ではありません。我々は、一度しかない人生だからこそ出来るだけ早くに天から与えられたミッションを知り、その完遂を目指し日々全精力を傾けて頑張って行かねばなりません。

「年五十にして四十九年の非を知る」(淮南子)、「行年六十にして六十化す」(荘子)という言葉もあるように、天命と考えていたことが実際天から与えられた使命ではないかもしれません。しかし、我々は自己の向上を目指す努力を惜しむことなく何歳になろうが常により良きように変身し、そして「日々に新たに」という気持ちを持ち続けて行くことが正しい生き方だと思います。

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