人は生まれ変わることができるか

長谷川 良

ナザレの青年イエスの33年の生涯、実質的には3年間の公生涯の言動がその後の世界の歴史を大きく変えていったことには異論がないだろう。

「復活」シモン・チェホヴィッチ作

イエスの言動をまとめた共観福音書を読めば、イエスは30歳を迎えた後、福音を述べ伝え始めたが、当時のユダヤ教指導者たちはイエスを異端者として批判し、最終的には十字架にかけて殺害した。もし、ユダヤ教指導者、律法学者たちがイエスの教えを受け入れていたならば、イエスは十字架上で亡くなる必要はなく、旧約聖書で予言されていたように、“ユダヤ人の王”として迎え入れられたはずだ。そうなれば、キリスト教は誕生することはなく、ユダヤ教を土台としたイエスの教えは、世界に宣教されていったはずだった。しかし、その計画が実現されず、イエスは33歳の若さで十字架で殺害されたわけだ。

キリスト教会では、イエスの十字架があたかも神の予定だったと考え、その計画に沿ってイエスは十字架で亡くなったと信じ、イエスの十字架を人類への神の愛の勝利として称え、信奉してきた。

イエスの十字架上での祈りをどのように受け取っているのだろうか。イエスのメシア(救い主)としての使命が十字架で死去することであったとすれば、イエスのエルサレム入り後の苦難の道は不必要だったはずだ。新約聖書を読む限り、イエスは無残にも殺害されたのであって、十字架上で死ぬために降臨したのではないことは明らかだ。

参考までに、「コリントン人への第1の手紙」2章8節では、聖パウロが「この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたならば、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう」と嘆いている。

人類の救い主を殺害した、という余りにも重い罪科を背負いきれないので、選民ユダヤ民族からその後発生したキリスト教会は「十字架の救済説」という神学を構築していったわけだ。

イエスの十字架を信じる人々に一定の恩恵を与えてきたことは事実だが、キリスト教神学の土台を築いた聖パウロ自身が告白しているように、十字架の救済には限界があるのだ(「ローマ人への手紙」7章22節)。それ故に、イエスは生前、「私はまた来る」と再臨を約束したわけだ。イエスの使命が2000年前に成就されていたならば、イエス自身は再臨に言及する必要はなかったはずだ。

「復活祭」を明日(16日)に控え、イエスの生涯を再度、振り返ってみたいものだ。イエスの降臨の目的とその使命は何だったのか、そしてなぜ33歳の若さで十字架上で亡くならざるを得なかったのか、等、キリスト教の根本的背景を再度検証すべきだろう。

イエスは「よくよくあなたに言っておく。誰でも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」(「ヨハネによる福音書」3章3節)と諭し、「新しいぶとう酒は新しい皮袋に入れなければならない」(「マルコによる福音書2章22節)と述べた。われわれは生まれ変わることが出来るだろうか。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2017年4月15日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。