師村妙石氏との出会いは学生たちにとっても衝撃的であったようだ。早速、師村氏が「新緑」を書くシーンを中心に、短編フィルムの作成が始まっている。別の学生は、文字の原稿に取り掛かった。師村氏が初めて中国を訪れたのも20代初め、ご長男の八(ヒラク)君が中国を自転車で旅したのも20初め。彼女たちは自分たちの今とを重ね合わせ、より共感を深めているようだ。
師村氏からは、200回近くに及ぶ訪日歴と作品群をまとめた画集もいただいた。1972年10月、人民大会堂で周恩来首相を中心にした集合写真から始まり、氏が師と仰ぐ呉昌碩のふるさと浙江省安吉や、呉昌碩が率いた篆刻研究の中心、同省杭州の西冷印社の写真が目立つ。師村氏はその後、西冷印社の名誉社員となり、同社で個展も開ている。一歩一歩中国、中国人との関係を築いてきたことを読み取ることができるれる。
師村氏の話で、忘れがたいエピソードがあった。ちょうど私が上海、北京にいたときのことだ。2010年の上海万博で、日本館のサテライト事業として制作した篆刻の石柱碑がある。日本の美を訴える「大和美之国日本」の言葉を刻んだが、展示終了後、北京で恒久的な作品として残したいとのオファーがあった。だが条件がついた。「日本」を強調すると不測の反応が予想されるので、文字を工夫してほしいとのことだ。要するにもう一度、彫りなおさなければならない。
普通の芸術家であれば、要求をはねつけたであろう。だが、師村氏は考えた。永久に残るのであれば、その道を選ぼう、と。隣国に対する深い理解と愛情がなければあり得ない決断だ。2011年5月3日、北京の日本大使館前にある中国国際青年交流センターで除幕式が行われた。重さ17トン、高さ3.12メートル、直径1.64メートルの円柱で、表には金色で「中日両国人民世代友好」、裏面には「心之和 技之和 心心相印(心の和、技の和、通じ合う心と心)」の言葉が彫られた。
翌12年は、領土問題を機にデモの群衆が日本大使館前に集まった。だが目と鼻の先にある師村氏の作品は無傷だった。
「『中日両国人民世代友好』の前では、だれも文句を言わないということですね」
師村氏の言葉を通訳すると、学生たちは「うーーん」と深くうなづいた。「友好」は長い間政治に利用され、手垢にまみれた言葉となってしまった感があるが、師村氏のメッセージは、その原点が人と人のつながりにほかならないという、当たり前の真理を気付かせてくれた。
編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2017年4月18日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。