“権力寄り”のメディアはあっていいし、読売は死んでない。但し…

新田 哲史

7年ぶりに手元に数枚残っていた名刺を出してみた。会社住所は本社建て替え一時移転中の銀座時代(遠い目)

加計学園問題でお騒がせ中の前川前文科事務次官の出会い系バー出入りを、古巣が報じたことで、永田町の火事騒ぎが大手町にまで妙な形で延焼している。築地方面と、その界隈である左派の猛反発はいわずもがなだが、アゴラでも先日は、池田信夫が、そして昨日は郷原信郎氏が読売新聞に対して、それぞれ独自の視点から批判を加え、ネット空間では、安倍政権を支持する右派的な人たちを除いて、ほぼフルボッコ状態である。

中退してもう7年経つとはいえ、燃え盛る「鉄火場」状態のところで、下手に古巣を擁護しようものなら、心外なことを言われるし、賢い人なら何も言わないところだ。この記事のタイトルにつられて本編を読みもしないでdisるアホ左派ネット民もいるだろう。

そういえば、先日、前川氏をツイッターで批判したら、左派のネット民から「読売をやめたのに、まだ洗脳が解けなくてかわいそう」なんてdisられたこともあったな。いつから読売は宗教団体になったんだよ、おい(笑)。同じく、ツイッターで名指しの批判をしたら逆ギレ気味に言及してきた左派論客、小田嶋隆氏の反応も含めて、加計学園問題を機にメディアのあり方を考えてきたこともあり、ちょっとだけ書いておこうか。

郷原氏の読売批判に2点だけ異論

まず、話題の郷原さんのエントリーに関して、言及しておく。リベラル系の論客でありながら、私も池田と同じく大変リスペクトしているし、権力との関係性について常々留意すべきことにはまったく同意だが、2点だけ異論がある。

一つは、前川氏が文科省の現役高官であったときに、警察の監視対象となっていたようなバーに出入りするというのは、やはり立場をわきまえず、軽率だったとしか言いようがない。これについては、社会部長の原口さんも指摘したように「教育行政のトップという公人中の公人の行為として見過ごすことが出来ないのは当然」のこと。

筆者は、原口さんほど目を三角に釣り上げているわけではないし、たまの息抜きにせよ、前川氏が釈明したように貧困女性の実地調査の一環にせよ、「お忍び」「社会見学」で数度覗きに行くくらいなら構わないと思うが、やはり、「公人中の公人」であるわけだから、何十回も足繁く通うというのは、立場をわきまえたものではなかったと思う。

「原口論文」についてはすでにネットでフルボッコ状態だが、軸となる部分はまったく間違っていない。

二つ目は、今回の読売新聞の報道と、オウム事件の時のTBSの対応をあたかも同列に論じている点だ。郷原さんの投稿はこれからも掲載したいと思うが、編集長の立場を脇に置いて、元読売記者の一人として、この点だけは看過しがたい。リーク報道を「不祥事」と論評するのは価値観の問題だから別に構わない。どんどん言っていただきたい。

しかし、TBSの問題は、戦後最悪の犯罪組織に対し、オンエア前にもかかわらず、坂本弁護士のインタビュー映像をみせ、のちに殺害につながった悪質きわまる不祥事。一方、読売のケースは、情報源が政府関係者であったにせよ、編集局および社の責任・自主判断で問題提起しており、編集プロセス、社会に与えた影響の質があまりにも異なる。「オウム真理教事件でのTBSの問題以上に、深刻かつ重大」とするのは筋違いだと思う。

こう書くと、読売擁護に思われるが、私はもう同社の人間ではないし、現在は取引関係もない(辞めてから数度、ウェブの方でアルバイト原稿があったくらいだ)。擁護したところで、なんのメリットもないどころか、左派ネット民に罵倒されるだけだろう。それでも、上記2点だけは、現場で真面目に取材をしている元同僚の心境を思い、言っておきたいところだった。

小田嶋氏に垣間見る価値観:メディアは“反権力”であるべきなのか?

さて最後に、本稿のタイトル、“権力寄り”について触れてみよう。
先日、読売報道を左派視点からこき下ろした小田島隆氏のコラムについて、私が酷評したツイートをした。


するとエゴサーチしたらしき、彼がご丁寧にこうのたまってきて、左派系のネット民が雲霞のごとくからんできた。

私も頭にきたので、二重国籍騒動の時のことを思い出して、こんな反論して、またカオスになったわけだが(苦笑)

小田嶋氏のいう「メディア」とはなんだろうか。そのことをテーマに記事を書こうとかと検討していたところ、昨日は八幡さんの記事「前川元次官をヒーロー扱いする人を論破する」に対する、こんな批判投書が編集部にメールで送られてきた。

「メディアは国民の代弁者として蛇行運転しないように政府をチェックし国の説明責任を追及することが仕事」

小田嶋氏もそうだったが、どうも戦後リベラル的な価値観にまみれた人たちは、「メディア=反権力」がデフォルトであるべきという、ある種の思い込みの根強さを思う。

もちろん、だからといって保守系メディアが、政権に迎合したいから政権寄りのポジションを取っては、メディアの存在理由はない。政府のオウンドメディアでもペイドメディアでもなく、アーンドメディアであり続けることにこそ意味がある。

「親しき仲にも是々非々論」

そのために最も大事なのは「言論の自由」であり、それぞれの問題意識を出発点に取材・検証を重ねて、自分たちの判断・決断でコンテンツを精緻化して読者・視聴者にお届けすることにこだわる。結果的に政権寄りになったとしても、それは自分たちの価値判断の結果であると堂々と誇れるように活動していればいいだけの話だ。

アゴラに対しても「官邸からいくらもらったんだ」なんて失笑もののいいがかりをする左派ネット民がいるが、アベノミクスのことをボロクソに言って来たことを知らないようだ。保守系メディアであっても、政権の至らぬことはしっかり批判する。週刊文春・新谷編集長の名言「親しき仲にもスキャンダル」ではないが、「親しき仲にも是々非々論」というのが、現実的保守メディアの理想像というものだ。

就職活動中だった頃だか、読売新聞の入社案内には、1989年に消費税を導入したとき、どのメディアもボロクソにいう中で、少子高齢化社会を見据え、真っ先に消費税支持を打ち出したことを誇らしげに書いてあったことを記憶している。1994年には、憲法改正の提言を果敢に打ち出し、政界やメディアの主流派の間で憲法改正を論じること自体がタブー視されていた壁を打ち破り、今日の憲法論議への流れを作り出す起点となった功績は大きい。大衆迎合はしない、アゴラ的に言えば「KY」というのが読売新聞の自慢だったはずだ。

デジタル対応で朝日にすっかり遅れをとったあたりのアナログ社風だけは、私は最後までなじめずに辞めてしまったが(詳しくは拙著「ネットで人生棒に振りかけた!」で)、

 

保守本流の大衆紙として、外部の何者にも干渉されることなく、外連味のない報道・言論を正々堂々と続けていただきたいと思う。

※参考までに、筆者が入社前まで使われていた「読売信条」を紹介しておく。時代の変遷を経て、2000年元日に現在のバージョンに変わったが、不易流行な部分もあると思う。

旧・読売信条
われらは真実と公平と友愛をもって信条とする。それが平和と自由に達する道であるからだ。

われらは左右両翼の独裁思想に対して敢然と戦う。それは民主主義の敵であるからだ。

われらはしいたげらるるものを助け個人の自由と権利を守るために戦う。それを勝利の日まで断じてやめない。

われらは日本の復興を急いで世界の尊敬と信頼をうる国たらしめんとする。それなくしては民族の生きがいがないからだ。