没後6年:ゴルフの天才プレーヤー、バレステロスを改めて偲ぶ

白石 和幸

全英オープン(1984)で勝利した時のバレステロス氏(Wikipedia:編集部)

スペインが生んだゴルフ界の異才セベリアーノ・バレステロス(Severiano Ballesteros)が54歳で亡くなって6年。「セベ」の愛称で親しまれた天才ゴルフプレーヤーであった。

彼が2007年7月に現役から退いてからも彼の語録と呼ばれているものが人気を集めた。その一つに次ぎのような語りがある。「我々は自分で思っていることが本当の自分だ。私は望んでいた目標を達成したと思う。そこに至るまで、私への称賛は期待しなかった。また批判で崩れることもなかった。唯一、『世界でベストプレヤーになりたい』と望んでいた私の少年の頃に内心から湧き出ていた声に従ったまでだ」。(参照:arngolf.com)。

セベはスペインのアルタミラの洞窟で有名なサンタンデール県のペドゥレーニャ市で生まれた。4人兄弟の末っ子で、3人の兄、バルトロメ、マヌエル、ビセンテは当時プロゴルファーであった。また、彼の母親の弟のラモン・ソタもプロゴルアーであった。ラモン・ソタはスペインゴルフ界の草分け的な存在で、1960年代のスペインでベストプレヤーの一人だった。彼はスペインカップを4度制覇し、1965年のマスターズでは6位に入賞している。セベは特にラモン・ソタの影響を強く受けているという。

セベが8歳の特に兄のビセンテが彼に3番アイアンをプレゼントして以来、彼の人生はゴルフと完全に密着したものになった。9歳になると、ペドゥレーニャ市にあるゴルフ場「ペドゥレーニャ・レアル・クラブ」でキャディーを勤めるようになった。そして、1974年3月にプロゴルファーとしてのタイトルを取得した。それは17歳になる一か月前であった。

その後、25歳未満のスペイン・オープンで優勝したのを皮切りに、スペイン国内、ポルトガル、フランスでの試合に出場したのであった。それが実現出来るようになったのも、彼にスポンサーがついてからである。マドリードの医者でセサル・カンプサーノという人物だった。彼はセベに当時のお金で20万ペセタ(25万円)を貸した。

セベが国際的に注目されるようになったのは1976年の全英オープンで優勝したジョニー・ミラーと通算6アンダーの差をつけられたが、ジャック・ニクラウスと2位タイで終えた時であった。それ以後のセベの活躍は留まることなく、世界のゴルフ界の注目を集めるプレヤーに成長して行った。勿論、彼のファンも日本を含め世界規模で生まれた。

彼の成績を以下に挙げることにする。

全英オープン3勝(1979, 1984, 1988)
マスターズ2勝(1980, 1983)
ライダーカップ4勝(一度はヨーロッパチームのキャプテンとして出場)
通算87勝

1987年のライダーカップでヨーロッパチームに負けた米国チームのキャプテンを務めたジャック・ニクラウスは記者からの質問に「私のチームにはセベがいなかった」と答えて、敗北した要因にセベの存在があったことを強調したのであった。(参照:mundodeportivo.com)。

天才プレーヤーというのは、プロでも常識ではできないプレーを当たり前のように難なくこなす能力を備えているようだ。セベはそれが容易にできる能力を備えていたようだ。パッティングの上手さでは天才だと当時評価されたベン・クレンショーはセベのことを「他の如何なるプレーヤーが夢の中でもやって見せることが出来ないショットをセベはプレーできる」と語っている。リー・トレビーニョは「各世代において、他のプレーヤーよりも秀でるゴルファーが一人必ず出現する。バリェステロスはその一人だ。タッチ、パワー、局面での適切な対処、野望、勇気、カリスマ。これら全てを彼は備えている」と述べてセベを称賛した。(参照:mundodeportivo.com)。

タイガーウッズは「私が見た最も創作的なゴルフプレヤーだ」と語り、ゲリー・プレヤーは「セベは最もカリスマ性に溢れたゴルフプレヤーだ。世代を超えて最高のプレヤーとして存在し続けることは保障する」と述べた。トム・カイトは「セベが本来の調子でプレーすると、フェラリーを運転しているようで、他の我々はシボレーという感じだ」と語り、またジャック・ニクラウスは「ゴルフの世界におけるセベが与えるインパクトは特にヨーロッパでは計り知れないものだ。偉大な人物であり、偉大な大使だ。彼の国そして、彼のスポーツを代表し、また同時に品格ある彼自身をも紹介している」と述べてゴルフ界の最高に偉大なプレヤーと称されたニクラウスとセベは同格であることを認めた言葉であった。

また、彼が活躍し始めた頃にキャディーを勤めたデイブ・マスグローは「大半のプレヤーは週によっては勝つには十分といえないプレーをすることもあると自分に妥協する。セベは毎週勝つ事だけを考えていた」と述べた。80年代に彼のキャディーを勤めたピーター・コールマンは「彼とのキャディーの仕事は容易ではなかった。何故なら、彼は私の仕事を絶対に褒めないからだ。しかし、私が仕えてた中のベストプレヤーだった」と語った。(参照:elmundo.es)。

2007年の『The Obsever』誌は「彼の存在が与えた影響と彼の偉業から、ヨーロッパ出身のゴルファーが米国でも活躍できると確信するようになった」と述べて、セベのライダーカップでの米国チームを前にしての戦いぶりが如何にヨーロッパのゴルファーに強く影響したかということを報じた。(参照:elmundo.es/

1974年から2007年まで33年間プロゴルファーとして活躍したセベリアーノ・バレステロスであるが、彼が設計したゴルフ場は世界に30ある。日本にも数か所ある。また、彼は2009年に「セベ・バリェステロス基金」を設けている。彼自身が患った脳腫瘍からの回復の為の研究支援と、青少年がゴルフを通してスポーツ精神の育成を育むのが目的である。(参照;バレステロス氏公式サイト)。

白石 和幸(しらいし かずゆき)
貿易コンサルタント
1951年生まれ、広島市出身。スペイン・バレンシア在住40年。商社設立を経て貿易コンサルタントに転身。国際政治外交研究や在バルセロナ日本国総領事館のバレンシアでの業務サポートも手掛ける。著書に『1万キロ離れて観た日本』(文芸社)