手段としての協同 目的としての協同

なぜ協同で学ぶのか?

なんででしょう。

大きな目的の一つとしては、端的に学力の向上が挙げられそうです。

研究でも、協同の学びは学習成果につながることが示されてます(いわゆる学力だけではなく、児童生徒の自己概念、社会的相互作用、仲間への肯定的感覚等にも望ましい成果を上げるそう)。

質の高い協同の学びは、学力の向上、非認知能力の向上に寄与するでしょう。

パワフル・ラーニング: 社会に開かれた学びと理解をつくる
リンダ ダーリング‐ハモンド
北大路書房
2017-05-26

↑この本は必読。★★★★★

ただ聞いているだけの授業からは脱したい。

では協同だー!と、ただグループワークをすればいいというものではないし、ペアで話すことを増やせばいい、ということでもない(やらないよいりはましかもしれないけれど)。

場合によっては、「教える-教えられるの関係性の固定から生じる負の効果」も考えられます。

質の高い協同の学びは実践の蓄積がたくさんあります。そこから真摯に学び、試行錯誤していきたいなあと思います。

ぼく自身は、学び方や学ぶペースは一人ひとり違う、ということを前提として、必要に応じて助け合えるゆるやかな協同。これがこれから目指していく学びの姿だと考えています。

目的としての協同

協同の学びはこれまでも学校教育で大切にされてきたことです。

ここまで書いてきたことは、言ってみれば「手段としての協同」といえるでしょう。しかし協同は手段としてだけ捉えるのでよいのでしょうか。

この週末、とあるところのワークショップ(?)でこのことを考える機会がありました。そこで出てきた議論が「目的としての協同」。

社会をつくっていくということは協同しておこなう営み。

学校も同様です。

学校という場での協同は「よりよい学校(社会)を共に創ることに参画する」ことそのものではないかと思います。

学校の生活や学習の中で起きる様々な課題や問題に、どうすれば解決していけるか協同で探究する。そのことによって学校というコミュニティ自体が自分にとっても他者にとってもよりよい場になっていく。

つまり協同してコミュニティや学びをつくっていくこと自体が、民主主義の土台としての学校の役割ではないかと思うのです。

そのためには「子どもは共に学校を創っていくパートナー」であるという前提に立つ必要があります。

これってハードルが高そうに見えるかもしれません。でも越えてみたら、なんてことはないハードルだと思うんですよ。

そして、一緒につくっていった方がよりよいものになるに決まってます。

ルールも一緒につくる。改変する。学習環境も一緒につくる。改変する。

たくさん苦労もするはず。

なかなか結論が出なかったり、意見がぶつかったり、わかりあえなかったり、 折り合いをつけなくちゃいけなかったり、価値観の違いにびっくりしたり、なかなか成果が出なかったり。

たくさん発見もあるはず。

思っても見なかった新しいアイデアが生まれたり、共通点が見いだせたり、喜ばれたり,共に喜んだり、自分や他者の思わぬ強みや好きなことが見つかったり、確かに自分の所属するコミュニティが変わる実感を得られたり。

そんなたくさんの体験の中で「自分がコミットすることで自分の周りはよりよく変わっていく」というたくさんの体験の積み重ねが、これから生きていくときの原体験として,力強くハラの底に定まるのではないか。

そんな風なことを思いつつ、学校でのミーティングの情景を描きました。

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ミーティング – 一般財団法人軽井沢風越学園設立準備財団

 

ぜひ感想聞かせてください。

ああ、3連休が終わってしまうー。

夏休みまでがんばろー!


編集部より:このブログは一般社団法人「軽井沢風越学園」発起人、岩瀬直樹氏(東京学芸大学准教授)のブログ「いわせんの仕事部屋」2017年7月17日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は岩瀬氏のブログをご覧ください。