私にとっての読売新聞とは③

筆者の憧れた読売社会部のスター記者、故・本田靖春氏(著書表紙より:編集部)

読売新聞の体質については、拙著『習近平暗殺計画 スクープななぜ潰されたか』でも触れたので、以下、該当部分を抜粋する。私は読売新聞の青田買い入社面接で、当時の人事部長に「どうして読売を選んだのか」と聞かれ、「御社出身の本田靖春さんにあこがれて」と答えた。

本田靖春氏は読売新聞社会部、ニューヨーク支局など16年間在籍した後、辞職してノンフィクション作家になり、代表作の『不当逮捕』(1983年)では読売に批判的な立場を取った。私は地雷を踏んでしまったわけで、人事部長から「これからは個人ではなく組織の時代だよ。個人の朝日、組織の読売とも言うんだ」とクギを刺された。スター記者を育てていく朝日新聞に対し、読売新聞は組織の力で勝負するということだった。

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1955年から14年間、読売新聞社会部に在籍した本田靖春氏は『不当逮捕』の中で、「正力松太郎の社長就任(1924年)に始まる発展期に、東京の江東地区を中心とする庶民階層に主として支えられた読売は、社会面を売り物にして来た」と書き、「理由はともかく、上司に反抗した新人が咎めを受けず、かえって不服従を慫慂する雰囲気があった。そういう気風が社会部の戦闘力の源泉だったのである」と駆け出し記者時代を振り返った。

私が社会部にいたのはそれから約40年後だが、「読売は社会面で持っている」との認識は部内で共有されていた。先輩記者からはしばしば「庶民感情が肌でわかるようにならなければ、一人前の社会部記者じゃない」と説教を受けた。本田氏は同書の講談社文庫版(1986年発行)に寄せたあとがきで、新聞社の「管理体制の強化」や新聞記者の「サラリーマン化」を指摘し、知る権利を支える言論の自由が弱まっていることを危惧した。その弱体化傾向は今に至るまで続いているが、私が社会部在籍中はまだ伝統の片鱗が感じられた。同業他社の読売新聞に対する評価もまだ、事件報道にとことんこだわる記者集団とのイメージが残っていた。いい意味で煙たがられる存在だった。

読売新聞は週刊誌やスポーツ紙の影響で、渡辺恒雄主筆のワンマン経営ぶりばかりが目立っているが、主筆自身が本来、政治部の特ダネ記者であり、紙価を高めるスクープに否定的なはずがない。世界最大発行部数の新聞編集を一人で率いているとイメージするのは大きな誤りであって、政治について大方針を語ることはあっても、個別記事についてとやかく口をはさむことはない。少なくとも私はそういう目に遭ったことがない。むしろ周囲が本人の意向を忖度し、過剰な反応をしていることの方が多いように感じている。私に対する緊急帰国令も、もし渡辺主筆の意向であれば、間違っても撤回するようなことはないし、周囲も私の抗議を許さないだろう。

だが、突出して強いリーダーのもとで、取り巻きの側近たちが単一の思考を持つようになり、活発な議論が封殺されることは考えられる。本田氏が感じたような上下の風通しがいい社風は存在し得ない。私の身の回りに起きた不条理について、それを知り得る幹部らが何ら異論を示さない議論不毛の土壌を生んだことについて、少なくとも最高指導者としての責任はあると思っている。

(中略)

「個人の朝日、組織の読売」と呼ばれてきた。朝日新聞は他メディアの優秀な記者をスカウトし、有効に人材を生かしてきた。社内外で記者個人の広い活動領域を許容し、多くのスター選手を育ててきた。だが2014年の社長引責辞任を招いた誤報事件後(※)、急速に組織の個人に対する管理が厳しくなり、官僚体質が強化されたと仄聞する。

(※2014年8月、朝日新聞が従軍慰安婦報道や東京電力福島第一原発事故「吉田調書」の誤報で対応に手間取り、社長が辞任に追い込まれた事件)

一方の読売新聞は、生え抜きの社員を重用し、中途入社組は特別な例を除き冷遇されてきた。地方紙などから引き抜かれたエース記者が、改めて地方回りをさせられ、幻滅して去って行ったケースもある。本田靖春氏が風通しの良い上下の人間関係を「戦闘力の源泉」と評したように、組織の力も、内部の人間が生き生きとしてこそ発揮されるが、個人が押しつぶされては組織自体が活力を失う。

本田氏の『不当逮捕』は、同氏の先輩でスクープ記者として名をはせた立松和博氏が、売春処罰法案を巡る贈収賄疑惑で検察内部の権力闘争に巻き込まれ、誤報を握らされた挙句、名誉棄損容疑で逮捕された事件を追ったものだ。最終的には読売新聞が非を認めて記事を取り消し、立松記者は「会社の信用を傷つけた」として懲戒休職処分を受けた。本田氏は立松氏が「誤報」の汚名を着せられて葬り去られることに抗議し、「社が検察およびその背後に控える政治権力との妥協の道を選んで、掛け替えのない彼を見殺しにするのであれば、側近にいる私が本人になりかわって、事の真相を広く社会に訴えなければならない」(文庫本あとがき)と執筆の動機を明かした。

本田氏は同書で以下のように語っている。

「戦い取ったわけでもない『言論の自由』を、いったい、だれが、何によって保障するというのだろう。それを、まるで固有の権利のように錯覚して、その血肉化を怠り、『第四権力』の特権に酔っている間に、『知る権利』は狭められて行ったのではなかったか――。新聞が『正』と『義』の二文字を打ち出すことは瞬時に出来る。しかし、社会の正義は活字ケースの中にあるのではない」

立松事件後、社会部は一時、特ダネをボツにする事件報道暗黒の時期を迎える。本田氏は「組織の読売」の意味するところが、組織は自己保身の論理しか持たず、記者個人をいとも簡単に見殺しにしてしまう残酷なルールでしかないことを伝えたかったに違いない。組織には組織の理論がある。それは理解できる。ただ「組織」の名のもとに、新聞社の幹部が自己保身を図っているとしたら、「組織の読売」さえをもないがしろにするものではないのか。

本田氏は晩年、糖尿病で両脚を切断し、肝臓がんや大腸がんと闘いながら『月刊現代』で自伝的ノンフィクション「我、拗ね者として生涯を閉ず」の連載計四六回続けた。2004年12月4日、最終回を残して永眠。私は入社試験の面接で、うっかり「本田靖春」の名前を出して以来、ずっと彼の影が傍らにいるような感じがしていた。もし存命であったとしたら、後輩の社会部出身記者の身に降りかかった「安全」のための特ダネ執筆禁止令や緊急帰国令について、何と言ったであろうか。

(続)


編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2017年8月1日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。