時間は誰の味方か

60代に入ると時間の過ぎ行くのが驚くほど速い、ということをよく聞く。あのアインシュタインが明らかにしたように、重力は空間と光を曲げ、時間を遅らせる。また、「あなたの24時間」と「私の24時間」ではまったく異なっている。早く過ぎ去った1日か、時間が止まったように感じる日か、その時間の濃淡は人それぞれ違い、異なった印象を残していく。

▲当方の仕事部屋から見えるウィ―ンの朝明け風景(2017年8月、撮影)

ところで、時間は果たして誰の味方だろうか。嫌なことがあった場合、慌てずに時間が過ぎていくのを待てばいい、と聞いたことがある。それは偽りではなく、多くは事実だろう。当方自身、体の痛みが時間の経過と共にいつの間にか治癒されていった、ということを何度も体験している。時間は痛みを治癒する力を有している。逆にいえば、ある一定の時間が過ぎない限り、癒されないということにもなる。喧嘩別れした2人が再び理解し合うためにはやはり時間が必要だろう。人は落ち着いて考え、再考し、悔い改めたりできる時間を必要とする。

一方、時間の経過が問題を一層、先鋭化することがある。北朝鮮の核開発問題はその典型的な例だろう。国際社会が看過し、米国が「戦略的忍耐」(オバマ前米大統領)をしていた時、北は核開発を急速に進め、核の小型化にも成功したといわれる。時間は北の核開発問題では平壌の味方をしているわけだ。

国際社会は制裁を実施し続ければ時間の経過と共に、北は脆弱になり、最終的には崩壊するだろうと漠然と考えてきたが、事実は逆になっている。北は核搭載可能な大陸間弾道ミサイルを開発してきた。北の核問題は政権の交代か、何らかのラジカルなチェンジがない限り、もはや解決できない段階にまで来ている。

逆に、時間は紛争勢力間に和解を促進するケースもある。最近では、コロンビアの内戦だろう。多くの犠牲と戦い疲れということもあるが、時間は紛争勢力に和解のチャンスを提供している。

時間はまた、隠されてきた問題を表面化させる。「覆い隠されているもので、現れてこないものはなく、隠されているもので、知られてこないものはない」と新約聖書「ルカによる福音書」12章に記述されているが、不正や腐敗が時間の経過と共に表面化し、暴露されていくケースは日常生活でも見られることだ。
人は最後まで隠し事を秘めることができない。秘密を墓場まで持っていける人は稀で、隠し事があればそれを告白し、許しを求めようとするものだ。

時間の効用は別として、時間が物事や人間の精神生活に大きな影響を及ぼしていることは間違いない。時間は絶対ではなく、相対的だ。何億光年先の宇宙の時間と地球上の時間とは違う。時間の経過も非常に主観的だ。腕時計で標準時間を決めることで、人々は時間の経過に伴う混乱を避けてきたのかもしれない。

ビックバーンで宇宙に質量が生まれ、その空間は急速に膨張していった。宇宙のインフレーション理論だ。私が今見ているものは宇宙創造当初の現象かもしれない。宇宙創造時の質量が私の体の中を突き抜けていったかもしれない。

時間は1日24時間、1年365日、全ての人に等しく与えられていると考えられてきたが、実際は、1日30時間、1年を500日の周期で生きている人間がいる一方、短い周期で人生を過ごしている人もいるだろう。

昔、「時間よ、止まれ!」と叫んだ不思議な少年が活躍したが、時間はやはり動いている。それを良しとして生きていく以外に他の選択肢はない。時間のもつ優しい癒しに自身の痛みを委ね、堂々と生き抜いていきたいものだ。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2017年8月23日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。