閉塞感の漂う時代にはしばしば極端な言説が幅を利かせる。現代の世界には各地で似た兆候が見られる。人々は問いを発する努力を厭い、快楽のみを追求する感情に委ねようとする。功利の極みに達したメディアは、大衆を扇動するとともに大衆に迎合し、軸を固定されたまま回転するコマのような悪循環に陥っている。常識が権威を失い、ナルシシズムが人の心をさらに閉じていく。懐疑精神は生ぬるい空気の中で溶解していく。
だからこそ、メディアの再定義、定義の解消を通じて、環境をこの手に感じられるものへと取り戻す必要がある。携帯電話の機能はいずれ、体内に埋め込められるだろう。AIに我々の脳まで支配される事態に陥らないために、我々は問い続けるしかない。
「自由貿易」という建前の欺瞞を暴き、経済成長の神話に異議を申し立て、グローバリズムが生む格差から目をそらさず、既成概念に挑戦しようとする人々がいる。石炭を遅れた資源だと決めつけ、CO2に悪玉のレッテルを貼ることは、道理にかなっていないと発言する科学者もいる。曇った目が当たり前だとみなす「常識」は問い直されなくてはならない。歴史の知恵に支えられた常識と科学の精神によって、真理が探究されなければならない。
必要なのは中庸の思想だ。AIにできる単純な「足して二で割る」数式ではなく、両極端を超越し、さらなる高みにたどり着こうと模索する精神である。中庸は、中国の春秋戦国時代、孔子が語ったとされる思想だ。当時、思想家は弁舌一つで各地を訪ね、経世策を領主に説いた。誇張した口舌もあり、その危うさをはらんだ社会風潮に異を唱えたのが孔子だった。
拙著「『反日』中国の真実」でも、過剰な感情が支配する日中関係を冷静に考えるために、「混沌とする現代にあって、二分法の極論は容易に大衆の心理をつかみがちだが、それは極めて危険な現象だ」と、中庸の思想を提唱した。そして、批評家の小林秀雄が書いた評論『中庸』(1952年)を引用した。学生時代に読んで以来、心に残っている言葉だ。
「左翼でなければ右翼、進歩主義でなければ反動主義、平和派でなければ好戦派、どっちともつかぬ意見を抱いているような者は、日和見主義者といって、ものの役には立たぬ連中である。そういう考え方を、現代の政治主義ははやらせている。もっとも、これを、考え方と称すべきかどうかは、はなはだ疑わしい。なぜかと言うと、そう言う考え方は、およそ人間の考え方の自律性というものに対するひどい侮蔑を含んでいるからである」
小林はまた、「(孔子)は、行動が思想を食い散らす様を、到るところに見たであろう。行動を挑発しやすいあらゆる極端な考えの横行するのを見たであろう。行動主義、政治主義の風潮のただ中で、いかにして精神の権威を打ち立てようかと悩んだであろう」と語った。改めて肝に銘じたい。
世界のそうそうたる知識人にインタビューした吉成真由美著の近刊『人類の未来』(NHK出版新書)を読んでいて、「中庸」の言葉を見つけた。英フィナンシャル・タイムズの経済論説主幹、マーティン・ウルフ氏との対談で出てくる。
ウルフ氏は、イデオロギーにとらわれるのではなく、人間の本質を理解した合理的な思考を強調する。そこで、かつて古典哲学を学んだ氏は、「古代ギリシャに有名なキャッチフレーズがあります。ギリシャ語でミーデン・アガン(meden agan)、「過剰にならぬよう」という意味です」と語る。するとインタビュアーの吉成氏が、「ああ、中庸(moderation)ですね」と相槌を入れ、ウルフ氏が「そうです!中庸(golden mean)、バランス、仏教と同じです」と応じる。言わんとしているのは、理性と感情とのバランスだ。
簡便さが求められる新書の中に、これほど多彩な人材との多岐のテーマにわたる対談をまとめるのは至難だが、このやり取りの個所は、特に輝きを放ったように感じられた。東西の文化が触れ合った火花だった。筆者が引き出した、対話の醍醐味である。わざわざ原語を書き添えているのにも、筆者の深い意図を感じる。ウルフ氏は、中庸や節度の大切さを繰り返し語った古代ギリシャにおいて、中庸には「黄金の(golden)」という形容がされていたことを暗示したのだ。
「ミーデン・アガン(またはメーデン・アガン)」は、ギリシャ・デルポイの神殿に刻まれていたとされる言葉で、そこには「汝、自らを知れ」も並んで書かれていたという。「自分を知り、節度を学ぶ」。数千年を経たAI時代においてもなお、いやさらに、問い直されなければならない言葉だ。
ウルフ氏は仏教にも触れているが、紙数の制限なのか、同書にはこれ以上の記載がない。だが「仏教経済学」を唱える英国の経済学者、E・E・シューマッハー氏が『スモール・イズ・ビューティフル』の中で、精神の豊かさを得る仏教の「中道」を取り上げている。同書は
「仏教の八正道の一つに『正しい道』がある。したがって、仏教経済学があってしかるべきである」
と説く。そしてこう語るのだ。
「仏教は『中道』であるから、けっして物的な福祉を敵視はしない。解脱を妨げるのは富そのものではなく、富への執着なのである。楽しいことを享受することそれ自体ではなく、それを焦れ求める心なのである。仏教経済学の基調は、したがって簡素と非暴力である」(小島慶三・酒井懋訳)
中道もまた、極端を避け、有無などの対立概念を超越した境地を指す。経済も技術も、身の丈に合ったものこそ合理的であるとの信念がある。中庸、中道、メーデン・アガン、洋の東西を問わない知恵は、「汝、自らを知れ」の思想にも通ずる。
問いの答えは、手の届かないはるか遠くにあるのではない。自分の歩み、身近な出来事を振り返ることから、答えは導き出せるはずだ。つかみようのない疑似空間ではなく、自分の五感で得たものを信じるところから始めるしかない。「AI時代とメディア」は、「AIがメディア」だとするところからスタートする。そして常識に戻っていく旅を続けることになるのだろう。
編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2017年8月27日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。