『学問のすゝめ』十七編「人望論」の中で福沢諭吉は、「人望はもとより力量によりて得(う)べきものにあらず、また身代の富豪なるのみによりて得べきものにもあらず、ただその人の活発なる才智の働きと正直なる本心の徳義とをもってしだいに積んで得べきものなり。人望は智徳に属すること当然の道理にして、必ず然るべきはずなれども、天下古今の事実においてあるいはその反対を見ること少なからず」云々と述べています。
人望という字は、人に望まれると書きます。つまり、ある面で人から頼りにされるということです。それは例えば、窮地に陥った時あの人ならどう考えるかと是非聞いてみたいとか、問題が起こったからあの人に一遍相談したいとか直ぐに助けを求めようとか、といった具合に一種の頼り甲斐がそこにあります。
そして頼り甲斐のある人であっても、あの人は真摯に自分の悩みに答えてくれないのではないかとか、此の困難な状況下あの人なら真摯に尽くしてくれるだろうとか、といった具合にそうした姿勢の有無も人望が有るか無いかに関わっていると思います。
平たく言えば上記類が人望、または人望のあらわれということになるでしょう。では如何にして人望を得て行くかと言うと、それはその人が人物か否かに関わります。即ち換言すれば、その人が他人の苦しみを自分の苦しみのように、あるいは他の出来事を自分の出来事のように捉え得る姿勢を持っているかどうかに拠ります。
例えばアダム・スミスは『道徳感情論』で、「人間は他人の感情や行為に関心をもち、それに同感する能力をもつという仮説から出発している」わけですが、此の「共感(sympathy)」の気持ちは当該姿勢に通ずるものでしょう。そしてそれは恐らく自分自身が様々な艱難辛苦を経験し、ある程度修養して行く中で養成されるものだと思います。
人望の源は、言うまでもなく人徳です。人望とは究極の所、徳の高低の問題です。世のため人のための修養をしなければ、私利私欲に塗れ人間的魅力もなく人望は得られません。我々は自分の世界だけに閉じ籠るのでなく、人の喜怒哀楽をシェアし人の気持ちになって考え感ずるよう努めて行かねばなりません。
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