中国政府が10年来進めてきたインターネットの実名制が徐々に具体化されてきている。10月1日には主要な討論サイトで実名登録が義務付けられる。デマ排除などの公共目的を掲げているが、体制批判を封じ込めるのが主な狙いであるのは明らかだ。一党独裁体制下では、民意による政権交代はなく、権力闘争の手段として大衆が動員される。実名制の裏には、ネット世論がますます力を持ち、特定の政治勢力によって利用されるリスクが高まっている背景事情がある。SNSで支持を広げた米トランプ政権の誕生も脅威だったに違いない。
裏を返せば「匿名」が権力を持ち始めたということなのだ。これまでも「沈黙の多数(サイレント・マジョリティ)」が世論を左右する大衆モデルはあったが、いよいよものを言う匿名の大衆が公共の場に登場したのである。体制論にとらわれていると、現代社会に共通する問題が見えてこない。
日本ではマス・コミュニケーション市場を独占してきた新聞やテレビの影響力が他国に比べ強いため、インターネットにおける健全なコミュニケーション・ルールの確立に対する意識が低い。親しい者どうしの閉じた交流を重んじる傾向が強く、開かれた、共有すべき言論空間は十分に育っていない。そのためネット言論の匿名性については、「無責任」で、「真実性に欠ける」とのマイナス評価が強い。
私も、ネットの感情的な、偏執的な、荒唐無稽な言論には嫌悪感を抱いている。だが、世界において自由、公開、共有のルールに基づくシェアリングの概念が広まり、新たなビジネスモデルや、ウィキペディアなどの成果を生んでいるのを目の当たりにしてからは、匿名性の多様な意義にも目を向けざるを得なくなった。実名が担う権威を乗り越える可能性も評価すべきだ。
伝統的なメディアについていえば、新聞報道の多くは匿名(無署名)である。それは、記者個人の主観を排除し、客観的な報道に徹するという姿勢を反映したものだ。その根っこが米国にあること物語る、興味深いエピソードが武市英雄著『日米新聞史話』で紹介されている。
19世紀末から20世紀初めにかけ、米国でセンセーショナルなジャーナリズムがはびこる中、劣勢だったニューヨーク・タイムズは不偏不党の原則を打ち立て、「客観的な報道」を売り物にする。題字わきに「All the news that’s fit to print(印刷に値するすべてのニュース)」のスローガンを掲げ、1904年、学者肌のバン・アンダが編集局長に登用された。
アンダ氏は、決して自分の名前を活字にすることを許さなかった。ある時、部下の一人が署名入りの記事を書かせてほしいと嘆願してきた。ところがアンダ氏は、
「うちの社は記者の紳士録をつくっているんじゃないんだよ」
と一蹴した。米国のジャーナリズムは記者の個性が強いが、実はこんな時代も経ているのである。
日本は戦後、連合国軍総司令部(GHQ)の占領方針に従い、意見を排除した「正確な事実」を報じることを義務付けられた。ここから今に至る客観報道の歩みが始まる。一方、米国では1960年代、客観報道に対抗し、書き手の視点を重んじる様々な試み、いわゆるニュー・ジャーナリズムの動きが起きた。こうした従来のメディアは反省を迫ることになる。
ニュー・ジャーナリズムは日本にも大きな影響を与える。私の世代は学生時代、まさにその渦中にあった。やがてその動きも下火になり、次に訪れたのは、ジャーナリズムを媒介させない、当事者の一人称による告白だ。報道は匿名のタコツボからはい出すことができず、袋小路に入った。
日本メディアの現状を思うに、「客観報道」のための匿名も、官僚主義がはびこるにしたがって無責任体質の温床となり、記者の独立性を奪うことにつながっている。「客観報道」と記者クラブ制度が安易に手を結べば、大本営発表の再演である。組織の責任も、個人の無責任性によって成り立っている以上、しょせんは責任回避、責任分散のメカニズムしか持ち得ない。ネット空間の匿名性を批判しても、自己弁護でしかなく、説得力を持たない。
インターネットは、情報の送り手市場を開放し、双方向の空間を生んだことに意義がある。権力や利益はまた新たな手段を使って、これをコントロールしようとする。伝統的メディアはこの点において体制側と共通の利害を持ち、権力の代弁者になる危険をはらむ。結局、権利を得た個々人がいかに自由と責任を担う覚悟を持つかということに行き着く。そのうえでこそ匿名性が既存の権威を打ち破り、個人の独立を保障する価値を持つ。
人工知能が「人とは何か」を問い直す契機をもたらしたのと同様、インターネットが匿名の意義を通じ、「公共の言論とは何か」「世論とは何か」という民主主義の原点に改めて向き合うことを迫っている。これだけは間違いない。
編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2017年9月7日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。