教育は注入ではなくネットワークという考え方

昨日の教師節には、ある女子学生から人民日報の携帯アカウントが配信した動画を送られ、感想を求められた。「先生はどんな学生が好きか?」をテーマに、小学生から大学生、そして教師へのインタビューで編集した短編だ。

学生たちは、先生が「成績優秀」「聞き分けがよい」「活発」「授業中に私語や食事をしない」といった模範的な生徒を好んでいると思いがちだが、先生自身に聞いてみると、そうしたことは必ずしも重要ではない。むしろ「信用を重んじない」「交流を拒む」学生こそが頭痛の種なのだ、という落ちになっている。確かにその通りかもしれないが、他愛もない話である。

私はそもそも、教師と学生の関係を好き嫌いで割り切ることに違和感があったので、それを伝えた。好きか嫌いかはどうでもいい。教師が何を考え、何を伝えようとしているのかこそが問題だ。功利主義が入り込めば、生産者と消費者のような利害関係になってしまう。学生が教師の目を気にし、歓心を得ようとする。教師は権威を与えられたと錯覚し、専制君主のように振る舞う。これでは学習の場と言えない。

学校だけではない。企業では上司と部下の関係、社会では統治者と被統治者の関係、メディアでは送り手と受け手の関係に、こうした服従、従属の形がはびこっている。専門家集団が知識を独占する官僚主義の悪弊である。既得権益はますます強固にガードを固めている。

イヴァン・イリッチ(イリイチ)は1970年に著した『脱学校の社会』(東洋・小澤周三訳)で、こうした社会現象に警鐘を鳴らした。子どもは「加工され産業機械の中に入れられるべき資源」に貶められ、学校は「教育内容のパッケージを生徒たちに注入する注入器」と化している。だから「脱学校化(deschooling)」が必要なのだと主張した。彼が当時、まさに中国で進行していた文化大革命に対して示した関心は興味深い。

「三千年にわたって、中国はどこでどのような教育を受けたかという教育の過程を問題としないで、官吏登用試験に合格しさえすれば特権を与えることにより、比較的高度の学習がなされることを保護してきた。世界の列強となり、近代的な国民国家となるためには、中国は世界的に共通な学校教育の様式を採用しなければならなかった。文化大革命が社会の制度の脱学校化を試みたものとしてはじめて成功したものとなるかどうかは、われわれには後になってみなければわからないことであろう」

中国では伝統的な学習の場は、世界基準に従って学校に置き換えられたが、毛沢東が人民の独裁を掲げ、その壁を取り払う脱学校化に挑んでいる--。

中国が厳しい情報統制を敷く中、イリッチは文革による社会改革に光明を見出そうとした。彼が暮らした南米では、毛沢東主義が広く浸透していたこともあるのだろう。結局、文革は個々人の自律的な学習を否定し、洗脳に向かっただけだった。イリッチは、学校は社会制度の結果として生じるのではなく、学校の改革こそ社会改革の先鞭をつけるものだと認識していた。脱学校化による革命の力を信じたことは確かだ。だが皮肉にも、中国の学校は今、学習の場よりも消費地の性格を強め、トーナメント競争によって息苦しさが満ち満ちている。どうやって学習の場であることを取り戻せばよいのか。学生に「学習させる」のではなく、学習への自主性を重んじ、世界との結びつきを与える。イリッチはそれを「学習のネットワーク」、さらには「公衆が容易に利用でき、学習をしたり、教えたりする平等な機会を広げるように考案された新しいネットワーク」と呼び、「機会の網状組織(opportunity web)」とも言い換えている。20年後に訪れるインターネット社会を先取りした表現だ。

社会のあらゆる教育資源が等しく公開され、共有され、それぞれの技能を有する者が登録されて、それを学ぼうとする者たちが容易に検索でき、学習仲間を見つけるため、コミュニケーションのためのネットワークを構築し、教育者の名簿データが作成され、その能力や必要に応じ社会に貢献する。彼の掲げる具体的なアプローチは、あたかもビッグデータやシェアリングの成果を取り込んでいるかのようだ。

根底にあるコンセプトは、「相互親和」とも「自立共生」とも訳される「コンヴィヴィアリティ(conviviality)という概念だ。権力や身分、権威によって個人が抹殺されるのではなく、各々が自律し、独立し、そのうえで仲間と対等の関係で創造的、刺激的な交わりを行う。生産と消費の一面的、従属的な関係ではなく、相互依存、相互啓発の中で個人の自由を実現する。機械の奴隷となることから人間を解放する脱工業化のアプローチから生まれたものであると同時に、現代においては、人工知能の発達に対しいかに人間性を回復するかという叫びにも通底する。

「国家や団体によって支配され、所有されている世界では、教育上の事物を利用することは限られているであろう。しかし、教育の目的で人々が共有できるそれらの事物をどんどん利用していけば、われわれは十分に啓発され、これらの究極的な政治的障壁をつき破るののを大いに助けられるかもしれない。公立学校があるために、事物を教育的に使用することの管理権は、国民一人一人の手から専門家の手に奪われるのである。学校を制度的に逆転させれば、個人は教育のためにそれらを用いる権利を取りもどすことができるようになろう。もしも、『諸物』のもつ教育的側面に対して個人的あるいは団体的に行われる統制がなくなるなら、真に公共的な性格の所有権が現れはじめるかもしれない」

専門家の権威を打ち破り、知識を暗室から引き出したウィキペディアは、もしかすると「真に公共的な性格の所有権」になるのかも知れない。


編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2017年9月11日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。