「見捨てられ論」「巻き込まれ論」の圧倒的受け身体質

「都合のいい関与だけしてほしい」

安保法制の議論、中国との間に抱える尖閣諸島問題、そして今回の北朝鮮によるミサイル発射・核実験と安全保障環境に変化が起きるたびに言及される、日米関係の「見捨てられ論」と「巻き込まれ論」

言ってしまえば、「日本にとって都合のいい『関与』ならしてもらいたいが、都合が悪い時は『巻き込まれた』ことになるし、必要な時に『関与』してくれなかったら『見捨てられた』ことになる」ということだ。また、タイミングで言えば「関与のタイミングが早すぎれば『巻き込まれた』と言い出す可能性が高くなり、遅すぎれば『見捨てるのか』と非難する声が上がる」、さらに悪ければ結果論で「アメリカの関与で悪い状況になったら『巻き込まれた』と言い、関与しなかったことで悪い結果になれば『見捨てられた』ことになる」のだろう。身もフタもないが……。

身勝手なようでも、すべての国は自国の国益を第一で考えているのだから当然だ、というのは分かる。だがそれで通るのはせいぜい半分くらい。なぜ半分かと言えば、アメリカから日本に対する武力行使を伴う要求は、安保法制で少しはマシになっただろうが、アメリカの都合度外視でほとんどの場合「できません」「やりません」になる。

「私たちも国益と同盟の重さを真剣にはかりながら、できる限り同盟国としての務めを果たしますよ」という体制が日本に整っていれば、アメリカに対しても主体的に「今回はほどほどにしといてくれ」「今回は助けてくれ」と要望することもできるのだろうし、相手も相応の対応をするだろう。また、相手からの要求も主体的に受け入れたり断ったりできる。

だが自分は憲法をほとんど何もできない(しない)状態で、相手にばかり「助けろ」とか「その行動は迷惑」とか言っている。

「毎度聞きますけど、守ってくれますよね?」

日本と同じくアメリカと同盟関係にある韓国はその点まだ主体性が感じられて、なんだかんだあってTHAAD配備を受け入れながら、一方で「過激な挑発はウチが困るんでちょっと抑えてもらえませんかね」とやっている(この点で『Journalism』9月号、佐藤信・東京大学先端科学技術研究センター助教「シャドーボクシングから学ぶこと――北朝鮮ミサイル問題の構図」が興味深かった)。

朝鮮戦争は休戦中だから当然だが、核シェルターはあるし徴兵制も続行中で「女性も徴兵されるべし」の議論が高まっており、アメリカの戦術核の再導入や核保有も議論されている。先日は韓国の学者から「日韓で同時に核保有したらどうか」という提案まであった。日本とはずいぶん差がある。

いくら在日米軍の展開が「日本のためでなくアメリカの国益のためなのだ! 沖縄という犠牲を払っており、タダ乗りではない」「日本の牙を抜いたのはアメリカだ!」と叫んでも(それ自体はいずれもごもっともだが)どこかむなしく、こんな状態で総理や防衛大臣が何かあるたびにアメリカに対して「守ってくれますよね? 大丈夫ですよね?」と毎度毎度聞いているというのは、実際、涙が出るほど情けない話だ。「守るよ。で、お前は何するの」とアメリカから聞かれないのだろうか。「日本はとにかく大人しくしていることが国際社会にとって利益になる」という時代はずいぶん前に終わっている。

もう受け身はやめませんか

とはいえ、「巻き込まれ」と「見捨てられ」の懸念は、程度は違えど、実はアメリカ側にも起こり得る。日本が巻き込みたいと思っている日中間の尖閣を巡る攻防に、アメリカは巻き込まれたくないと思っているだろう。一方、東アジア地域でアメリカが某国から攻撃を受けても、日本は「私たちにとって存立そのものを脅かすものでなければ動きません」と言っており、アメリカに加勢しない可能性もある。見捨てられ、とは言わないまでも、「これで同盟国と言えますか」と思うだろう。

ただし、ある面、お互い様のようでいて決定的に違うのは、アメリカは日本に巻き込まれようが見捨てられようがそれだけで自国の存立に決定的な影響はない(アメリカが日本の助力なしでは事態に対処できない、ということはほとんどありえないという指摘がある)し、同盟国はほかにも何国もあるが、日本の場合はアメリカの出方が自分たちの国家の存立に深刻な影響を及ぼすことだ。

日本にとってはアメリカだけが同盟国だが、アメリカにとっては東アジアのみならず、中東にもNATOにも「同盟相手」を抱えている。同時多発的に事態に変化が起きれば、アメリカが必ずしも東アジア有事にだけ向き合うわけにいかなくなる。「後回し」も十分ある。

それなのに、日本は受け身でいいのか。いいはずがなく、その受け身姿勢にアメリカもウンザリし始めたようだ。古森義久『戦争がイヤなら憲法を変えなさい』(飛鳥新社)にもあるように、ついにアメリカから「憲法9条を言い訳になにもしないなら、アメリカはもう日本を守れない」と忠告する声が上がるに至ったわけだ。そして日本の護憲派の思惑に反し「日本が何もしないこと」は「いざという時アメリカも介入しないこと」に繋がるので、尖閣問題で言えば結果的に中国の野心を増大させる可能性がある。

それどころか、核の傘に関しても、「核持ってない同盟国を守るために、自分たちが核攻撃のリスクを負うのって、なんか変だよね……てか、何の意味もないよね。もうそれぞれの国に持ってもらったほうがいいんじゃない」という声もある(『フォーリン・アフェアーズ』2016年9月号、ダグ・バンドウ(ケイトー研究所シニアフェロー)「日韓の核開発をアメリカは容認すべきか――核の傘から『フレンドリーな拡散』へ」)

みんなうすうす気づいているように、これまでのやり方はもう限界なのだ。

何より同盟は永遠ではないのだから「軍事力を備えるというだけの話でなく、意思決定の仕組みや組織・法整備も含めて自立的(自律的)な防衛体制に少しでも近づける算段を、いまから」と訴えるわけだが、なかなか伝わらない。「見捨てられ論」も「巻き込まれ論」も、両方軽減できる道だと思うのだが。

(アイキャッチ画像:首相官邸HPより)