私はなぜマスコミに出入り禁止になったか

池田 信夫

私は20年近く前から電波オークションを提案してきたが、こんな当たり前の制度の実施がここまで遅れた原因は複雑である。アメリカで1992年にPCSオークションが行われたころは「落札価格が暴騰して通話料金が上がる」といった批判があったが、結果はその逆になった。ベンチャー企業が参入して、携帯電話の爆発的な普及が始まったのだ。

私が日経新聞の「経済教室」に「情報家電で産業復活を」というコラムを書いたのは1998年9月だが、このときを最後に日経からの執筆依頼が絶えた。ここでは次のような図で、「未来のメディアの主役はインターネットだ」と書いたからだ。


この記事は大きな反響を呼び、NTTコミュニケーションズの鈴木社長に呼ばれて「当社のキャッチコピーに”Everything over IP”を使いたい」といわれ、私のコメントが新聞の全面広告になった。NHKの技研にも招かれ、職員研修で「これからはIPだ。地デジは袋小路だ」と講演したら、当時の所長も次長も賛成してくれた。

このころ私はNHKの会長室によく呼ばれ、デジタル化についての意見を聞かれた。そのころアメリカではデジタル放送が決まったが、同時にインターネットも急速に成長していた。私は「特定のインフラに依存した地デジは効率が悪い。これからはブロードバンドで、すべてIPになる」と助言した。

この時期には技術者は「次はIPだ」とわかっていたが、少し前に役所が地デジに移行する方針を決めたので、経営者は迷っていた。NHKでは私の同期が「ネットの世紀」と題するインターネット革命についての大型企画を提案し、私がそのラインナップを考えたが、この企画は2000年ごろ打ち切られ、「変革の世紀」という意味不明のシリーズになった。

テレビ業界は、この前後に「ネットはテレビの敵だ」と認定したようだ。それは世界共通の認識だったが、日本では地上波の民放と新聞社が系列関係になっていたため、世界に類をみない報道管制が始まり、「通信と放送の融合」を肯定する意見はマスコミにまったく出なくなった。

特に地デジに移行するとき、私が「アナアナ変換」に政府が3000億円以上の補助金を出すことに反対したのが決定的だった。私がHotWiredでテレビ朝日の広瀬社長への公開書簡を出したころから、テレビ局の出演依頼はまったく来なくなった。

「私企業の周波数移行に国費を出すことはできない」と大蔵省に注文をつけられたテレビ業界は、政治家にロビイングを強めた。野中広務氏から内容証明が来たこともある。NHKの海老沢会長からも内容証明が来た。

地デジ移行を境に、私はテレビや新聞に出入り禁止になった。オークションはインターネットと無関係なのだが、2000年代にEUが3Gオークションをやったときも日本は見送った。このとき役所が周波数を裁量的に割り当てて独自技術の「ガラケー」に統一したため、日本の携帯端末メーカーは死んだ。

20年前に図のような認識をもっていた人は超少数派だったが、結果は明らかだ。オークションさえ恐れて電波を浪費していると、次に死ぬのは通信サービスである。電波はもうパンクしており、5Gでカバーできるエリアは限られている。Vlogでも解説したように、新しい伝送技術を使えば、テレビ局の既得権を守ってオークションはできるのだ。