習近平総書記が18日、開幕した中国共産党第19回大会で演説し、中国モデルの社会主義が「新時代」に入ったと強調した。党の一貫性に正統性を置く習近平にとって、「新時代」とは伝統の継承、発展に対する誓いであり、自信の表明するレトリックでしかない。内容を詮索しても始まらない。
硬い文言が並ぶ政治報告に、初めて「中国の夢」「偉大な夢」「青春の夢」など、「夢」が29回も使われた。習近平の泥臭い一面が色濃く出た。
彼が初めて「中国の夢」を語ったのは、総書記に就任して2週間後の2012年11月29日、常務委員7人全員で国家博物館の常設展「復興の道」を参観した際の演説だ。同展は、アヘン戦争以後、欧米列強による分割の危機にさらされながら、共産党の指導で民族の独立を果たし、改革開放による経済発展を遂げた眠れる獅子の覚醒をたたえる内容だった。
習近平は参観後、会場内で原稿を見ずにこう語った。
「みんなにはそれぞれ夢があるが、私は、中華民族の偉大な復興こそ、中華民族が近代以来抱いてきた最も偉大な夢だと思う。この夢は何代にもわたる中国人の願いを凝縮したものだ。中華民族と中国人民の全体の利益を体現し、中国の子どもたちが共に待ち望んできた。歴史は私たちに告げている。一人一人の前途と命運はすべて国家と民族の前途と命運と密接につながっている」
歴代の指導者にはない、人文的な用語に驚いたが、当時はまさかこのスローガンが党大会の報告に登場するとは想像もしなかった。
習近平は具体的な「中国の夢」として、建党100年(2021年)にゆとりある社会(小康社会)を全面的に築き、建国100年(2049年)には富強で、民主的で、文明を備え、調和のとれた社社会主義近代化国家を建設する「二つの100年目標」を掲げた。これもそのまま今回の報告に盛り込まれ、2035年までに「基本的に」現代化された社会主義国を構築する」との中間構想も加わった。
だが、「二つの100年目標」は、経済成長が軌道に乗った1997年の第15回党大会以降、毎回の基本方針に盛り込まれている。小康社会の実現という発想は、鄧小平が1979年12月6日、日本の大平正芳首相と会談した際、「我々が実現しようとしている四つの近代化(工業・農業・国防・科学技術の近代化)は、〝小康の家〞である」と述べ、20世紀末までの目標としたのが最初だ。
鄧小平はその後、一人当たりのGDPについて年代を区切って具体的な数字目標を掲げてきたが、それが「二つの100年目標」につながっている。15回党大会は、鄧小平の死から7か月後に開催され、鄧小平路線の継承を明確にしたものだ。習近平の語る「中国の夢」は、決して新たな理論や国家目標を提示しているわけではない。悲願の継承である。
腐敗の深刻化や社会格差の拡大によって、共産党政権の存在が問われている。社会主義イデオロギーが色あせ、党の求心力が低下している。深刻な危機感を楽観的な理想主義によってコーティングしたのが「中国の夢」だ。中華民族の復興という目標は、「振興中華」を訴えた孫文以来、毛沢東を通じて受け継がれている悲願である。
毛沢東は1956年、第8回党大会の準備会議で、「我々が建設している国家は偉大な社会主義国家であり、100年以上にわたって劣った状況、人に見下されてきた状況、不遇な状況を完全に改め、世界最強最大の資本主義国家、アメリカに追いつくことができる」と述べ、「あと5、60年でアメリカを追い越せなければ、地球から除籍になる」と言い切った。
この焦り過ぎた「中国の夢」が、短時間で英米を追い越すという大躍進期の目標を生み、国家に災難をもたらした。習近平の「新時代」には、過去の失敗を乗り越え、自分こそが先人の果たせなかった夢を実現させるのだ、との決意が込められている。だが、目標にとらわれ、数字を追いかけるようなことになれば、再びその根っこに残っている焦燥感が顔を出す危険がある。
官僚たちは上からの政治使命にビクビクし、失敗を恐れるあまり、過剰な自己保身に走っている。社会の隅々にまで、その空気が伝わっている。党大会そのものよりも、その後、下からの自主性や活力をそがないようなかじ取りができるかどうかが問われる。中国人には厳しく締める「緊」と、少し緩める「松」を併用しながら物事を運ぶ知恵がある。それが発揮できるかどうかである。
(続)
編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2017年10月18日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。