「知ること」が生きる力となる為に

当方の知り合いに繊細でデリートな女性がいる。その夫である友人から、「彼女の前で余りテロとか殺人といったことを話さないでほしい」といわれたことがあった。この夫婦と一緒の食事をする時などは、当方は、「知っていますか、北朝鮮の政情を」とか、「イスラム過激テロ組織『イスラム国』(IS)が欧州でもテロを計画しています」といった情報を得意げに話していた。彼女の夫から、「君の話はテロ、核、紛争といった悲惨な話が多く、その話を聞いて帰宅すると、彼女は憂鬱になる。彼女の前では……」という警告になったわけだ。

それ以降、友人夫婦がわが家を訪問して話す機会があれば、もっぱら「今年の冬は寒くなりそうだ」とか、「あのスーパーで今、何々が安い」といった無難な話で終始するようになった。

ジャーナリストは悲しい職業かもしれない。他の職種の人より多くの情報を集めるが、良く考えれば、その大多数が人間の悲惨な状況や世界の暗い側面の話だ。日々、そのような話を聞き、集め、考えていると、テロ、戦争、犯罪といったことが日常茶飯事のことのように感じだす。彼女の“当方離れ”は優しい神経の持ち主ならば、当然の反応というべきかもしれない。

▲フランシス・ベーコンの肖像(ウィキぺディアから)

英国の哲学者フランシス・ベーコン(1561~1626年)を持ち出すまでもなく、「知ることは力」(knowledge is power)だ。無知からはいかなる情緒も発展もない。しかし、ベーコンが諭した「知ること」はテロ、犯罪、紛争といった情報を多く知ることを指しているのではなく、「宇宙はなぜ存在するか」、「神は存在するか」、「永遠の命は」といった問いに対する「知」だ。決して情報ではない。

現代は情報社会であり、インターネットを通じて世界の隅々で起きている出来事や情勢を瞬間で共有できる。敢えて知ろうとしなくても、情報は至る所で氾濫している。ただし、現代人がスマートフォンや本で知る内容は、「宇宙とは」、「神は」といったことではなく、日々の生活に役立つ情報やハウツー物が圧倒的に多いだろう。

メディアは、スペインのテロ事件を伝え、その翌日、北欧のフィンランドで刃物襲撃事件が発生すると、それも報じる。読者は直接自分とは関係がないさまざまな情報と対峙することになる。
フランスのニースのトランク暴走テロ事件、ベルリンのクリスマス市場突入テロ事件、そしてバルセロナのワゴン車暴走テロ事件が流れてくる。その結果、「欧州で今、イスラムテロ事件が多発し、車両テロ事件が頻繁に起きている」という状況把握が構築されていく。そして「今年の夏季休暇は欧州を避けるべきだ」といった結論が出てくる、といった具合だ。

メディアが報じる情報の多くは楽しいニュースより暗い事件に関する情報だ。だから、現代人が心底、楽観的な世界観を持つことが難しくなってきた。多くの現代人は眉間にしわを寄せて、物事を斜めで見ることが習慣になっていく。友人の奥さんが当方の話を聞きたくないのは正当な自己防衛かもしれない。眉間にしわを寄せず、人生に対して、いつまでも明るく考えていきたいといった自己防衛の反応だ。

もちろん、世界は暗いことばかりが起きているのではなく、良いことも起きている。感動するストーリーは事欠かない。メディアは人が犬を噛んだ話だけではなく、人間の良き側面を示す話を探し、積極的に報じるように努力すべきだろう。そして読者は暗いニュースと明るいニュースをバランスよく摂取できれば、友人の奥さんのような過剰な拒否反応も柔らぐのではないか。

現代人は人生の目的、宇宙の目的、神の存在などについて考えているが、喧騒な日々に追われ、忘れてしまっているだけだ。読者が潜在的に考えているそれらのテーマを特集して報道すれば、多くの共感と反応が得られるだろう。
情報や知識が人生の生きる力とならなければ、「知は力」とならない。単なる情報や知識の氾濫は混乱と不安をもたらすだけだ。


編集部より:このブログは「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2017年11月8日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。